猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【日常のほんの少しをスリラーに】「Welcome to Bushwick」のススメ【vimeo】

 

 現代人は忙しい。映画館での二時間は、その分の時間をスマホから引き離されるため、苦痛にもなりうるらしい。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

 以上の記事をみて、非常に驚いた。「たった二時間」も我慢できないのか、と。しかしながら、客観的に見れば、「たった二時間」でもスマートフォンを見ないことへの不安感は、(自分自身は感じないとはいえ)わかるような気がした。普段、ちょっとでも空き時間があればスマホを触ってしまうのは事実だからだ。ただし、もともと映画館に映画を見に行った経験からいえば、すべての日常から一瞬離れ、映像の没入する「その時間」は格別なものだ。そのような経験が今後もしなくなってしまうとすれば、もったいない。

 

 そこで、似たような経験が短い時間でできるものはないかと探してみた。そこでみつけたのが、動画投稿サイト『vimeo』にあった作品、「Welcome to Bushwick[1]」だ。言語は英語だが、セリフ以外の「映像」「音」「編集」「色」などに「スリラー」が凝縮されている。初期のシチュエーションは、さえない男の子が、イケてる女の子の家にデートに来たという感じだ。

 

 

vimeo.com

 

 

【以下、映像の「スリラー」解説 ※ネタバレ注意※】

 部屋に到着したところから映像は始まる。明かりがつけられる。二人の距離感が絶妙なので、なんとなく恋人同士ではないけど親しい男女なんだなとわかる。二人のカットバック。交互なので、ロマンチックなはずなのに、不穏だ。二人の顔の影が暗すぎるし、音楽にも緊張感があるから。すべては、セリフ以外でなんとなくわかる秀逸な表現だ。

 

 お洒落な音楽に横並びの位置、お酒、ボディータッチ。雰囲気がいい感じになると、鼻歌とともに彼は飲み物のおかわりをつくりにくる。焦点のない後ろに彼女のぼんやりとした影。『リング』の貞子をも思わせるその影は、カットが変わると怪物的なおそろしい表情に変貌している。暗さ(照明)や緊張感(音楽)による「不穏さ」が彼女の顔の怪物化へとつながるのは、まさに「スリリング」な表現の加算方法だ。

 

 とっさに逃げる「彼」。逃げ込んだのは、バスルームだ。逃げ込む前の一瞬空白のバスルームでは異常が起こっている。壁にかかった絵が床から壁にひとりでに這い上がるのだ。ここは何かがおかしいとわかる。そして、バスルームの色は白く明るい。ドアの金具は、外からものすごい力で開けられようとしている。彼は、すこしずつさがっていく。明るさは、彼の焦燥の表情を前景化し、背景のバスルームのカーテンを少しずつあぶりだす。

 

 バスルームは、ヒッチコックの『サイコ』から恐怖=スリラーと殺人=死の匂いの象徴だ。おそらく、バスルームの「狭さ」が窒息的なこわさを強調し、「制限」(出入り口は一つがほとんど)は逃げられないというサスペンス的である。そのうえ、風呂部分の半透明のカーテンは、(黒沢清がよくつかうように)見えるか見えないかをあいまいにしていて、サスペンスを増殖させるし、一般的にトイレや入浴を行う空間としての「無防備さ」も絶望感をあおる。

 

 扉が静かになったのを機に、彼は壁に耳をすませるが、なぞの力に弾かれ、母親からの電話はジャックされ、「911」にもかからない。耳を引き裂くような「キーン」という音にドアの外から聞こえる怪物のような声、カットの速さ、空間の狭さ(ドアの内側だけの映像にとどめる)が緊張感を加速させる。

 

 意を決し、バスルームにあったハサミを手にドアを開ける「彼」。「彼女」は少し離れた(最初のふたりくらいの)位置に立っている。ブログ主は最初気が付かなかったが、一見普通にみえる彼女の足は関節がおかしく「変」だ。幽霊の表象としてはありきたりだが、画面の暗さ、全身が移るほど引いた構図、その後アップになるのが、彼女の「普通の顔」のため気づきにくい。「彼女の普通の顔」で、作品は終わる。では、どうなるのだろう。わからない。

 

 宙吊りのままのラストは、作品の「スリラー」が継続させるうえ、この物語がいかに「スリラー」のための作品だったかがわかる。作品は短い。物語をすべて明確化させるのは難しい。そのため、この作品は映像作品の「即時性」(その瞬間における経験)が重視されている。過去から現在の積み重ねで「把握」するよりも、現在を「体験」する作品だといえるだろう。「物語」<「表現」ともいえるだろうか。

 

 

――――――――――――――――――――

 エンドロールをいれても6分間の映像だ。スマホの通知などを切って、自分の部屋のパソコン(または、スマホ)で見てみてはどうだろう。そして、今後このようなネットのショートムービーは、現代人の「映像体験」においてひとつの可能性なのかもしれない。いつでも、どこでも、短時間でも、日常にすこしの「かけがえのない瞬間を」。「Welcome to Bushwick」のススメ。

 

 

[1] Bushwickはニューヨークの街の名前。ウォールアートで有名。

 

【BBC版】『Sherlock』、現代化のダイナミクス;2-2「バスカヴィルの犬」より

 本記事はtame lab!!!のほうにお引越ししました!

より読みやすい編集になっておりますので、ぜひご覧ください🙇🙇

blog.livedoor.jp

 

 

SHERLOCK/シャーロック シーズン2 [Blu-ray]

SHERLOCK/シャーロック シーズン2 [Blu-ray]

 

 

 

【ベネディクト・カンバーバッチ】ホームズシリーズ×現代はなぜ相性がいいのか~『Sherlock』と『シャーロック』【ディーンフジオカ】

 こちらの記事は、現在までのものとしてかなりアップデートして映画など映像分析専門ブログtame lab!!!のほうにお引越ししました!ぜひ、こちらもみていただけると嬉しいです🙇🙇

 

 

blog.livedoor.jp

【過去記事まとめ】「トップ4=ガレキ牛」分析の置き場【ちょっとだけ追記あり】

 このブログを書いた時の個人的な目標のとして、ゲーム実況者の方々の分析を書きたいというものがありました。そして、ブログを書き始め半年。なんとか、通称・トップ4(ガレキ牛)のみなさんの一人一人への分析を書くことができました!

 

 ということで、今回は、その記事をまとめて載せておくページを作ろうの回でございます(関連記事を今後書いた場合も追記しようとおもいます)。書いた時の思い出等、多少の追記も添えていきますので、よろしくお願いします!

 

 

 

1.キヨ

 ゲーム実況者分析の一発目は、キヨさんについて書きました。本当にブログをはじめてすぐであり、ブログに慣れておらず、まだまだ短い文章を連載で書いていました。パート1を書いたころから、アクセスもいただきはじめて、あらためてキヨさんの偉大さを感じたところでもあります。

 最後の記事は、キヨさんのYouTube200万人突破の記念に書いたものです。こちらは勢いで書いたものとなります。

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

※ブログコラボでも分析を行いました

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

2.レトルト

 トップ4における二人目は、レトルトさんについて書きました。当ブログにおいて最もアクセスをいただいている記事となり、思い出深いです。少しはブログの使い方に慣れ、一つの記事の文字数がキヨさんのころに比べると多くなっています。でも、前半後半なのに、ちょっと題名の表記ずれがあるんです…。そして、直すタイミングを見失ってしまいました。ブログ主のポンコツさがでてしまい、お恥ずかしいです。ほかの記事に比べても、「すっ」と発想できた記憶があります。

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

3.牛沢

 ブログもだいぶ見ていただけるようになり、いままでに好評をいただいていたぶん、勝手にプレッシャーを感じていた際、ふっきれたきっかけになったのが牛沢さんの魅力分析でした。実況を見ていて、導かれたような記事でもあり、改めて実況者や牛沢さん自身の力を感じ、今後もその一端でも伝えられたならとも思います。

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

4.ガッチマン

 4人の中でラスボス感のあるガッチさんが最後になりました。ガッチさんがYouTube登録者数100万人を突破されたときにまでと思っていたのですが、書き直しが多く、ちょっと遅くなってしまいました。結果的には、いままでとはちょっと違った挑戦的な文章にできたこと非常にうれしく思います。挑戦的な文章なだけ、どうしても前後編にできずにひとつにまとめています。

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

―――――――――――

 最後に、新たな目標は、「トップ4=ガレキ牛」の全体論を書くことです!

 いつになるかはわかりませんが、日々研鑽をつみます!

 

 

【祝・100万人】テキトーなガッチマン、振り回される俺達-「パラレル」なガッチマンという男

 はい。そうです。このタイトルは牛沢さんの『13日の金曜日』実況の神タイトルのオマージュでございます。「キレるガッチマン、逃げる俺達」は何度聞いても語呂がいいですね。この時点で即高評価でございました。

 ということで、ホラーゲーム実況界のドンであり、トップ4のひとり、ガッチマンさんの論を相変わらずの拙稿ながら書いていきたいと思います。もともとはニコニコ動画で活躍されていた方ですが、現在は活躍の場がYouTubeとなっており、100万人登録を今年(2019年)に達成されました。高いプレイスキルから繰り出される、ホラーゲームのサクサク実況が代名詞といっていいでしょう。そのため、YouTubeのアカウント名は「あまり驚かないガッチマンはホラーゲームばかりやっている」という大変シュールなものになっています。

 

 そのガッチマンさんの魅力について、いつも通り自分なりに分析したいのですが、魅力の根幹となるキーワードは「パラレル」だと思います。前置きが長くなり大変失礼しました。できれば最後までお読みくださいませ…。

 

 

【【※にわか注意、ネタバレ注意です※】】

 

 

「パラレル」とホラー

 

 ゲーム実況では、実況者とみているリスナーが同じ視点を共有しているということが肝要だ。実況のほとんどが、自分の姿の実写がなく、プレイ画面に声がのっているというスタイルのため、見ている場面はほとんどの場合実況者/リスナーと同じなのだ。だからこそ、ゲーム実況には親近感が必要であるのだろう。その場合、見ている側と実況者側の感覚が「似ている」ことは大事になってくるように思う。見ている側の感想を瞬時に「言語化」するというのが、「実況」という名のライブ性のある能力ではないか。

 

 

 その表現方法は、実況者によってだいぶ個性がでる。例えば、トップ4で比較してみよう。キヨは、「拡大」。キヨといえば、リアクション系と呼ばれるが、実況のテンションは高い。つまり、見ている人の感想を「拡大」して叫びで伝えたりする。レトルトであれば、「素直」。見ている側の感想の程度を程よく平均化したテンションに変換してくれる。つまり、しばしばすんなり受け入れられるようなものとするということだ。また、牛沢は、「転換」。つまり、ツッコミのことである。ゲーム内のうっかり受け入れてしまいそうな変な設定や、ゲームの主観人物がなぜか受け入れていることを、すこし距離を置いて指摘をする。視点が「転換」するのだ。

 

 

 さて、それでいえば、ガッチさんはどうなるだろう。それは、おそらくこのなかで視聴者との距離が一番遠い「パラレル」な実況といえるだろう。ホラーゲームの真っ只中、幽霊が出てきても「冷静」かつ楽しんで実況をする反応は、およそ、見ている側とおなじ位相にいるとは思えない。ちょっと並行した次元から実況しているようである。ホラーゲームもアクションゲームの一種としてとらえているようだ。ホラーだけではなく、協力実況でもたびたび天然を発揮するのも、この「パラレル」な特徴に似ている。キヨのチャンネルに投稿された動画「【4人実況】絶対に笑ってしまうハチャメチャなゲーム『 HAVOCADO 』」においては、冒頭のゲーム紹介でキヨがしかけた(アプデでタイトル画面に音楽が付いているという)嘘(ボケ)を本当のことだとおもいこみ「え?まじで!?」とマジレス。すぐさまレトルトに「されてねぇよ」と突っ込まれる下りがあった。ここでキヨのボケを信じてしまうのは大抵ガッチさんである。そうすると、一見、見ている側からすれば、「共感できないのでは」と思うかもしれないが、共感とは少し違った形で見ている側を動画に引き付けていると思われる。それは、「感情の冷静化」による「見やすさ」にかかわる。

 

 

【キヨにだまされちゃうガッチさん↓↓】

 


【4人実況】絶対に笑ってしまうハチャメチャなゲーム『 HAVOCADO 』

 

 ホラーにはあまり連続ドラマが存在しない。それは、「怖い」という負の感情が継続するのが割と負担となるからだろう。日常への「スリル」ならば時間や空間がかなり限定的な映画やお化け屋敷の方が適役である。ホラーゲームを「する」人は、わりとホラー耐性があると思われる。なければそもそもゲームを購入しようとすら思わないだろう。一方、ホラーゲームを見たい人は自分でプレイすることに気が引けるが、「怖いもの見たさで見てみたい」という欲望を持った人も一定数存在するはずだ。だからこそ、「怖い」気持ちが増幅すれば、見るのをやめてしまうというともあるといえる。そこで親和性が高いのは、映像や音の「怖い」演出と、一見ミスマッチな「パラレル」なガッチマンの実況スタイルだ。それが、「怖さ」を和らげ、連続的に展開されるホラー演出をぎりぎり「怖いもの見たさ」の感情にとどめる。それを難易度の高いゲームでもサクサクすすめることができる彼自身のプレイスキルのよさが一役買っているのだろう。そういう意味では、画面上のホラーに対する「サスペンス」と、視聴者の個人的な「怖さ」の耐性の閾値を超えるかどうかという「サスペンス」という二重の「サスペンス」があるのだ。

  

【超個人的ガッチさんの入門ホラー実況とおもうもの↓↓】

www.youtube.com

 

 

 

「パラレル」な感情の発露

 

 さて、「怖さ」にはいたって冷静で、どちらかといえば、楽しんでいるように見えるガッチマンだが、いつも冷静というわけではなく、よくわからないところに感情が発露することがある。「イライラ」だ。伝説のテーブルマナーでは、操作性がかなり難しそうでお客さんがクマの人形という煽りの多いゲームに苦戦しつつも、平常心を装って淡々とプレイしていたが、最後にはブチギレを起こす。このブチギレが、普段ホラーゲームで圧倒的に冷静なガッチマンとはかなりの温度差があり、爆笑と好評を呼んだのだろう。ほかの人なら、「普通」の反応でも、いつも「パラレル」なガッチマンなら、その「普通」が「パラレル」になる。ガッチさんには、人とちょっと違う程度に感情の「沸点」があるらしい。そして、その「パラレル」な感情の高ぶりが、実況におけるひとつのスパイスになる。ガッチさん×バカゲーは、そのあたりの要素がかなり見られやすい。

 

 

【伝説のテーブルマナー↓↓】


【実況】紳士によるテーブルマナーを見たまえ Tea Party Simulator 2015

 

 

 おなじようなことは、プレイスキルでも見られる。スチームなどの操作のむずかしいゲームには、素早く対応し、恐るべきテンポでクリアするたぐいまれなスキルがありながら、子供にもよくプレイされる任天堂の操作に苦戦したり、単純なゲームに異常な「下手さ」を発揮したりするのも彼の良さである。牛沢のチャンネルに投稿された「TIMBERMAN」というゲームの実況、「【4人実況】木を切り倒し続けるだけの地味なゲームになぜかハマる男たち」では、なぜかあまりにも苦手なためか、かなり序盤のほうで、「俺このゲームだめかもしれない!」、中盤では「もうだめだわこれぇ」と弱音をはいている。

 

 

【苦戦によって主人公感があるガッチさん↓↓】

 

www.youtube.com

 

 とくにそのスキルのばらつきの意外性もリスナーがガッチさんを見逃せない要素だ。いつも、おなじように「驚かせない」ガッチマンではないのだから。「パラレル」な能力値だから見逃せない。そのうえ、このような意外性は、人間的でもあり、この点では親しみを感じざるを得ない要素ともいえよう。最後は、実況の中の人を超えた実体的な実況者であるという点をみていきたい。

 

 

 

 

テキトーなガッチマン/パパガッチマン

 

 四人実況のゆる回、一人ラジオでは、下ネタを含め、ぶっちゃけている「テキトー」なおっちゃんになっているガッチさんを目撃できる。これは、ガッチさんを語るうえで非常に重要なポイントだと思う。この「テキトー」さは、ゲームニックネームやキャラ造形にも関わり、ジェイソンシリーズでは、「入間」シリーズ(三井アウトレット入間、入間は人間ではない、入間ボルダリング…)から最終的には、「入」だけになっていく見事な変遷を見せ、ヒューマンフォールフラットシリーズでは、四人の中で唯一デザインが変遷している。このような変化力が、ガッチマンという人間を「キャラクター」ではなく「実体」的にしている。単一で単純ではない人間の複雑性を内包しているからだ。

 

 テキトーで、下ネタ好きのガッチマンをより単一にしないのは、彼が二児の父でトップ4のなかでも最年長である「パパガッチマン」の側面が強い。娘である「あかねさま」との実況は、娘の視点に合わせ仲良くプレイするする、ゲーム好きのノリのいい「パパ」であるガッチマンが見られる。トップ4でもホラー系では、先導者として頼れる「パパ」的なガッチマンがいる。あの「テキトー」なガッチさんとはちがう。このことにより、実況の中でも、あるときは異様に冷静でかっこよく、あるときはテキトーのうえ天然で、あるときは頼れて安定感がある多面的で人間らしいところがあますところなく表現される。

 

 

【あかねさまとパパの実況↓↓】

www.youtube.com

 

 

【トップ4の父となるガッチさん↓↓】

www.youtube.com

 

 だから、ガッチさんは、「実況の中の人」=声を超えて、「実体」=複雑性≒人間に近似値をとる。ガッチマンは本人と実況者のパラレルな位置にいる存在なのだろう。換言すれば、実況者の中でもかなりその「者」の部分が出ているひとなのかもしれないということだ。それもそうか。まだ、ほとんどの実況者が顔を出していないときから、メディアに顔をだしていることのある人だから。愛すべき実況「者」のガッチさんは、「パラレル」な実況者で、実況者とおそらく彼本人の「パラレル」な存在だ。だれもガッチさんにはなれないのだ…。

 

 

――――――――――――――――――――

 最後の方は、表現に苦労しましたが、できるだけみなさまに伝わればと頑張って粘ってみました。魅力をちゃんと分析できているか不安ですが、とにもかくにも書ききれて安心しています!

 さて、これでゲーム実況、日本トップ4分析シリーズが完結しました。いつかまた、実況者魅力分析文を書きたいので、リクエストがあれば教えていただきたいです!

 

 

【田中圭×林遣都×吉田鋼太郎】『おっさんずラブ』における恋愛の視覚的色彩コード

  この記事は、映画・ドラマなど映像作品専門ブログ『tame lab!!!』に移行しました!

 見やすくデザインを変え、間違いも修正されておりますのでぜひご覧ください!!!

 

blog.livedoor.jp

『清作の妻』における権力の抵抗分子、若尾文子

 本日は、大学二年生のころに書いたレポート原稿からです。すごーく、堅苦しく穴もあると思いますが、いまでも一生懸命に書いた記憶とともにお気に入りの原稿です。暖かい気持ちで見ていただけたら…。

 

【※ネタバレ注意※】

 

 

 

 

フーコーの『監獄の誕生』

フーコーは、『監獄の誕生』*1の最後に次のように述べている。

 この[監禁都市の]中心部の、しかも中心部に集められた人々こそは複合的な権力諸関係の結果および道具であり、多様な<監禁>装置によって強制服従せしめられた身体ならびに力であり、こうした戦略それじたいに構成要素たる言語表現にとっての客体なのであって、こうした人々のなかに闘いのとどろきを聞かねばならない。(P.308)

 『清作の妻』はまさにこの記述の世界観が現れた映画である。フーコーの言う「人間の多様性の秩序化を確保する技術」(p.218)である「規則・訓練」により、「従順さ」を持ちその権力の道具・一部と化した人間としての村人等が、人々の趨勢に黙ってついていかない「強情」で(実母・義母によって指摘される)「従順な身体」をもたないお兼(若尾文子)を権力の抵抗分子として監視する。そして、お兼は、画面上でも視線の監獄に入れられる。そこから自主的に出ることを許されない。また、お兼は、監獄のなかでも一人顔のわかる存在として孤立する。そこでお兼は、その監獄の中に自分の夫(田村高廣)を身体的・精神的に引き込むのだ。以下、具体的にシーンを見ていく。

 

視線の監獄の中のお兼(若尾文子

 映画の前半・中盤(夫の目を突くまで)においては、お兼が様々な面で監獄の中にいることが強調される。物語的だけではなくシーン的な側面でもそれが分かる。それは、彼女が移動するところに顕著に表れる。具体的には彼女が自主的にカメラのフレームから逃れることがほとんどできないことや、フレームから外れても映画内の人物に見られていることが強調されていることにあらわれているのだ。そのようなシーンは、多いのだが、印象的なシーンを二つ挙げる。

 まず、一つはお兼がご隠居の家から抜け出し、実家へと向かうシーンを見ていく。お兼は工員たちをかき分けてくる様子をカメラは正面からとらえている。この時、工員たちが特に覗き込んだりするようなしぐさはしないが、意図的に視線を避けるようにして下を向き、背中を向けるなどする(しかし、この間もカメラには彼女の顔がとらえられている)。そして、カメラに彼女が近づき、自分でフレームアウトしようとするとカットが切り替わる。場所は飛んでいるようだが細い道へと入っていく。その様子をカメラは先ほどとは逆に、背後から彼女をとらえている。ここでも彼女は下を向いて歩いている。途中に、集まっている女たちの視線を浴びる。そして、また彼女が家の中に入ってカメラの視線から逃れようとすると、カメラは先回りして中から彼女をとらえる。ここからは、彼女が視線を疎ましがるしぐさをし、映画内人物・カメラからも消えようとするが、カメラは彼女を主体的にフレームから消滅するのを阻止していくような動きをする。この時カメラは、権力側の監視装置となって、観客は監視者の一員(権力の「道具」)となる。

 また、彼女の夫(田村高廣)が出征した後、彼女が夫の実家を訪れるシーンをみていく。彼女が、夫の母親に義妹の在住を訪ねてお礼を言うと、カメラは彼女の顔から下に移動する。その際、彼女はフレームアウトするが、義母の彼女を見る顔がとらえられる。このシーンでは観客の視界から主体的に消えたと思いきや、やはり映画内人物の視線からは逃れられていないのだ。

 以上のように、彼女は、彼女の強情さ(母親と義母にそれぞれ強情であることを指摘されている)権力への抵抗分子の為に、その姿がとらえられるとき、常に、権力の一つの「道具」である映画内人物やスクリーンの前にいる観客に監視されるのである。この状態をここでは、視線の監獄に入れられた状態とする。彼女は、その中で「孤独」だ。いとこの兵助(小沢昭一)は、どうやら知的障害を持っているようで、「規律・訓練」からはそもそも離れた人物で、抵抗分子となりえない。まわりの人間は完全な権力の「道具」である。模範的青年が、家族や村人の反対を押し切ってお兼と内縁関係となったことで、一時的に抵抗分子となり「孤独」から脱することができる。しかしながら、戦争によって彼は出征を拒まず、決死隊に志願するという模範的な権力の「道具」となる。そして、ついに彼女は、模範的な権力の道具である夫を自分と同じような「非行」的で監獄の中にいる人間にしようとするのである。

 

 視線の監獄への抵抗―夫を身体的に監獄へ引き込む―

 ここまでは視線に対応できないお兼(若尾文子)を見てきた。しかし、彼女が権力に抵抗し、彼女の夫からその視線を奪って彼を自らと同じように視線の監獄に引きずりこむとき、彼女は移動しながらも一瞬誰の視線も受けない瞬間が訪れる。それは、彼女の夫が出征する直前に起こる。庭で偶然釘を手にした彼女は、誰もいない宴会場に戻っていくところから始まるシーンである。

 釘を持った彼女は、空となった宴会場へと戻る。この時、カメラは固定され正面から向かってくる彼女をとらえる。そして、彼女は、柱に手をかけると、そのまますっと障子の影に消え、主体的にフレームアウトする。同時に、フレームの右下から奥の扉に向かって村人が一人通り過ぎるが、彼女の方をちらりと見て彼女とほぼ同時にフレームアウトする。このとき、カットはすぐに切り替わらず、空白となった空間が映る。ここでは、彼女が視線の監獄から抜け主体的にすり抜けたことになるが、これは夫の目を、視線を奪うという犯罪行為(反権力的行為)を行うことの予兆となる。そして、その後、夫の目を突いた後彼女は、血だらけでドアから倒れ出る(低めのアングルのカメラのフレームに血だらけで飛び込んでくるというショッキングな描写である)、村人たちがあっけにとられている間に走って逃走し(ここで再び移動が始まる)、視線の監獄やその権力から逃れて死のうとする。そのとき、カメラが家の外から彼女をとらえるとカメラの右側へと走りながらフレームアウトする。このフレームアウトは、彼女の死への意志(脱権力的行為への意志)を示しているようだ。その後、義母の号令で村人たちは彼女を追い始める。ここから、彼女は再び視線の監獄へと引き戻される。村人に追われて視線を浴び、同時次第にフレームから逃れようとすると障害が出現する、カットが変わる、転ぶなどして観客の視線も浴び再び彼女が主体的に視線から逃れることは不可能となる。そして村人は、視線をすりぬけ、権力から逃れた彼女を不必要と思えるほどの暴力で制圧する。カメラは様々な角度(前方、後方、上方)から彼女が暴力を受けるさまを冷静に映していく。「死なせてくれ」という彼女に村人たちは死を許さない、再び視線の監獄へ引き戻すのだ。軍人のような男はいわゆるマウントポジションをとり、何度も殴る。彼女の尻を「いい」と言っていた村人は彼女の足を押さえつける。彼女へのサディスティックな感情が爆発したようにして、集団リンチ、集団強姦のような光景が続く。また、この時画面が切り替わると目を潰された彼女の夫が同じように、血だらけの状態で何人もの村人に抑えられつけられている様が前方、上方、後方の順に同じようにとらえられるのは、二人が「双」の状態になっていることが示される。この後、彼が本当の意味で彼女と同じ立場になることを考えれば示唆的である。このようにして、彼女がその視線から意図的にのがれる“異常事態”は終わりをつげ、彼女は本物の監獄に入ることとなる。

 お兼が夫から目(視線)を奪ったことは、視線の監獄と無関係ではない。小川(1965)によると目を潰すという行為は、夫の名誉をたもったまま夫を戦争に生かせないための「計画的合理的な反戦脱出の行為」だったという。しかし、それだけでなく彼女は夫から視線を奪い、身体的に監獄の中へ引き込んだのだ。夫は、目を潰されたことで見ることをはく奪され、模範的な権力の道具という立場から引きずりおろされる(のちに、その象徴であった「鐘」が投げ捨てられ、転がり落ちていくことで表現される)。そして主体的に視線から逃れることが不可能となる。こうして、視線の監獄へ物質的に引き込まれた彼女の夫は、精神的にも彼女と一体化していくこととなる。

 

精神的な合一

 目・視線を奪われたお兼の夫は、身体的には彼女と同じように視線の監獄へと収監された。さらに、精神的にも彼女の立場と一致していく。

 村人からの「卑怯者」「非国民」のそしりをうけ迫害の対象となった彼は、お兼の家に移る。そこで、注目されるシーンがある。それは、夫による想像のシーンと考えられる。囲炉裏の煙とリンクして煙の中から現れた鎖はどこまで続いているか想像もつかないくらいの長さがある。カットが変わるとお兼は、カメラのフレームにおいて左側に配され、下を向きもぞもぞと動いており、右側奥にはうつむき顔の情報を消された囚人たちが煙のような、霧のような靄の中でうごめいている(戦時中の収容所を思わせるような恐ろしい描写である)。その向きから、そのうごめく多くのものたちの方へ進んでいるのかと思わされるが、次のカットになると彼女は、左側に正面に捕らえられ、先ほどのうごめいていたものたちは、後方にくすんでみえる。近づいていたように見えたが、違ったのだ。また、この時彼女は他のものと違って特権的に顔がとらえられる。その後、横に移動するシーンでは、移動しながら壁の前を歩く彼がとらえられる。ここでは頭が真っ暗につぶれ無個性化に成功しているようである。しかし、すぐに壁は消え、途端彼女の顔には、再び照明が当たり、顔が見えるようになっている。この時、先ほど彼女の後方に映っていたはずの他の囚人たちは、また後方に映っている。また、彼女の足が映ると鉄の枷が彼女の足を傷つけていることがわかる。このシーンは、彼女の現実の姿ではなくあくまでもイメージの世界だと考えられる。彼女と他の顔のないものたちとの距離感、位置関係は間違えを起しているのである。ここでは彼女が長い間、視線の監獄で足枷と鎖でつながれていたこと、個性を消そうとして失敗してきたこと、その抑圧の中で彼女自身が執拗に繰り返すように孤独であったという“事実”が、ドゥルーズのいう「結晶化イメージ」的に表現されたのだとも考えられる。ここでは視線を失った夫が、彼女がどんな視線の監獄と権力に抑圧されていたかを知ったともいえるだろう。こうして、精神的にも彼女を理解し、合一化することとなる。

さらに、二人が同じ立場におかれたことはこの後のシーンで見られる。お兼が夫のもとに戻ってきた(この過程の移動でも再び彼女のフレームアウトが禁止されている)後のシーンでは、さらに見ることに対し触ることが優位性を帯びる。彼女は夫に自分がどうされても仕方ないといい、夫は彼女の体に手を這わせながら、首を絞めるに至る。しかし、途中でそれをやめ、彼女の頬に触れながら「やせたな」という。ここで、ほとんどの観客は彼女の体系が見た目的にはほとんど変わっていないことに気がつくだろう。映画は視覚情報・聴覚情報は伝えられるが、触覚情報は伝えることができない(触覚に似た感覚を得られるメディアではあるが)。しかし、このシーンでは、見ることでは判別できないことが、触ることによって判明し、映画が決して観客に伝えられない触覚情報が視覚情報より優位性を持つのだ。これは、二人の観客に対する優位性を示唆され、観客との間にも距離が生まれる。こうして、夫は完全に彼女と一緒に監獄に入れられる人間となったのだ。そしてさらに夫はこの村から逃げることは負けることであるとし、二人はともに村に残ることにする。つまり、夫は視線の監獄から逃げることをやめ、(特にこの村)社会の中に潜む権力の抵抗分子となり、その権力とその道具である村人が作り出した視線の監獄と戦うことを決意するのである。

この後映画は、お兼が畑仕事をするシーンで終わるが、視覚的に静かなこのシーンは、ある種嵐の前の静けさのようにも見える。この村で、抵抗分子となった二人が、何か起こしそうな雰囲気さえ残してこの映画が終わったように見えた。

 

※参考文献

ミシェル・フーコー(1975)『監獄の誕生』(田村俶訳).新潮社.

小川徹(1965)「抵抗派お兼の計画と心情--「清作の妻」」.『映画評論』.新映画.

*1:ミシェル・フーコー(1975)『監獄の誕生』(田村俶訳).新潮社.