猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

『猫丈記』~その二.「招き猫効果はあるか。」

 猫に関する随筆への挑戦『猫丈記』の第二弾です。よければ、第一弾もご覧ください。

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

 

 猫なる動物と同棲し始めて一年。店に行けば気になるオブジェ…。そう、招き猫だ。愛知県常滑市で多く生産されているそれは前よりもずっといとおしい。ガチャガチャを見かければ、いつの間にか課金をしてしまう。我が家は、いつの間にか招き猫が溢れている。

 

 

《最近、かわいすぎると思った招き猫ガチャガチャ。ちょっと値ははるけど満足度は高い↓》 

 

 

 

 

 さて、右手を挙げていれば「お金」、左手を挙げていれば「人」を呼ぶという招き猫。招き猫が溢れ、リアル招き猫の「まるくん」もいる我が家では「招き猫効果」はあるのだろうか…。

 

 まずはお金。どうだろう。大損もこかないけど、すごい利益を得たわけでもない。おっと、これはお金には厳しく、限りなく堅実な飼い主の性格をただ表しているだけか。次は人。まあ、うちはお店をしているわけではないのでなかなか。ただ、ブログでの人とのつながりはいただいている気がする。

 

 でも、「招き猫効果」は実は半端ない。お金とか人とかじゃなく、「福」は猫にあふれた我が家には以前より多くなっている気がする。とくに、つらいとき、不条理を感じたとき、落ち込んだ時、家族とギスギスしたとき。いつも通りすぎる招き猫のほほえみ、いつも通りすぎる飼い猫「まるくん」の愛らしさは、そうした気分・空気を非常に柔和にする。さらに、もっと落ち込んでしまったとき、ひとりで抱え込んでいていつも通り振る舞おうとしていても、いつも以上に寄り添ってかわいらしくしてくれる姿がたまらなく、愛おしい。その瞬間が、日常で最も幸福を感じさせてくれる。

 

 昨今は、「生きるだけ」ではつらい世の中なのかもしれない。目標や当面のゴールすら霧がかかって見えにくいことがある。むかしとは違った意味での「苦しさ」や「不安」が蔓延している。それは個人の力ではなかなか解決できない。仕方ない。だからこそ、ただ「生きる」のではなく、「生きている意味」を感じさせてくれる猫の存在は大きい。生きるという身体的な運動のなかに充足をあたえてくれる猫は…。

 

 そう、結局個人的に言えば「招き猫効果」はあった。うちの招き猫に嫌われないよう今日も顎で使われよう。

 

 

今週のお題「ねこ」

 …今週のお題にもタイミングよく絡められました!

【ブログコラボ】ゲーム実況の現在地からYouTubeの未来を覗け!【対談形式】♯2

 先日、予告させていただきましたコラボが、昨日ちゃんこ様のブログよりスタートしました!今日はその第二弾をこのブログで公開したいと思います!!

 

【※このブログは昨日のちゃんこ様のブログのつづきになります。こちらを見ていただければ、より面白いと思います↓↓】

chanko-bamboo.hatenablog.com

 

 

2.YouTubeは動画であるからこそ「広域」だ

ちゃんこ(id:chanko_bamboo):さて、ゲーム実況者の「TOP4」についてあらかた語りましたが。「TOP4」の凄みは個性豊かな面子の中にある「柔軟さ」、「繊細さ」、そして、「パラレル」の中にある「読めなさ」というのが「TOP4」の強みを作り出していると思いました。 ゲーム実況者に関わらず、他のYouTuberにおいてもそういう「強み」がちゃんと確立している方がいらっしゃると思いますが、チョピまるさんは誰かいらっしゃいますか?

 

チョピまる (id:caaatteey-0815):他のYouTuberで言うと、まずは有名どころで「東海オンエア」をあげたいです。 岡崎出身の6人組なのですが、現在も地元で活躍されていて撮影場所は「聖地巡礼」されるほどの人気で知られています。 6人は得意なこともキャラも、一人ひとり違いまして、撮影する内容等によって演者の数もちがったりします。実写系YouTuberの方は多くいますが、そのなかでも東海オンエアらしさを表しているのは映像作成系の動画だと思います。個性がぶつかり合い、まるで90年代の笑いに「シュール」さを内包しているのが非常に面白く(サムネイルや字幕の入れ方に平成年代前半を感じるのはわたしだけなのでしょうか…)、まさに東海の「強み」になっていると思います。

編集も、演者もどちらもしている「YouTuber」だからこそできる映像系お笑い動画は絶品です。 しかも、あんまり内輪ネタが多すぎないところも新規を常に呼び込める余剰を作り出しているような気がします。個性の「強み」と新規への「余剰」。どちらも兼ね備えているところはトップ4に似ているのかなぁ…と。 ちゃんこさんは「強み」を特に感じるYouTuberさんはどのような方でしょうか?

 

ちゃんこ:東海オンエア、かなり有名な方々ですよね!正直まだ開拓していない方々なので、紹介してくださった動画を初めて観ましたが、おっしゃる通り、東海オンエアはこんなグループ、というのが伝わる動画でした。 また、動画から幼い頃楽しんできたという昔の懐かしさが伝わってきます。これはまさに初見でも楽しめる雰囲気を作っているのかな、と思いました。 さて、私は、また違うベクトルの「強み」ですが、VTuberというジャンルを攻めたいと思います。 VTuberはここ2、3年で伸び始めたジャンルですが、だからこそ目を離せないジャンルです。 そんな新しいジャンルで私が「強み」を感じるのはおめがシスターズです。 おめがシスターズは、散財しがちだけど技術者として素晴らしいおめがレイと、発言も声も汚いのに歌声は素晴らしいおめがリオの双子系VTuberとして主に歌やボードゲームなど、多岐にわたる動画を配信しております。 そんは彼女たちはVTuberとしてVR空間を上手く利用していると思います。 特に、物理演算を利用した動画はVTuberだからこそ出来る検証だと思います。

VTuberとしての可能性を広げる彼女達の「強み」はただ可愛いだけでないのがVTuberだぞ、という偏見を払拭する存在だと私は考えます。 VTuberだからこそ、VTuberにしか出来出来ないことを見つけ出す企画力。それが彼女たちの「強み」の方向性では無いのかな、と思っています。 可能性を広げる……そういう意味ではTOP4も似たような感じもありますね……。 ところで、チョピまるさんは他のYouTuberで可能性を広げる人はいらっしゃいますか?

 

チョピまるVTuberというジャンルは、私もはじめましてだったので、ちゃんこさんの紹介していただいたおめがシスターズさんの動画見ました! たしかに、あの検証は「実写」の枠を越えてますよね。そしてキャッチーで気になります。動画あっという間でした! おめがシスターズさんの「枠」を越える感じというのは新しいYouTuberのポイントなのかなと思います。代表格として注目させていただいてるのは、シマリストきむらさんです。 このチャンネルの取り組みは非常に先進的で、シマリスたちを「かわいい」という枠に押し込めないんですよ! 動物をイメージの「枠」にとりこまず、いいところも困ったところも一緒に出してくれます。ここには、もはや映像内の半偶像の「かわいい生き物」の枠を越えて、ちょっと生々しいんですよね。たとえば、編集なしから編集ありへとつなげる動画は挑戦的な取り組みです。

視聴者のほうも、ただの受け取り手の「枠」を越えさせられ、感性を問われるところもおもしろいです。このチャンネルの映像は、ジャンル的に言えばもしかしたら“ネオドキュメンタリー”なのかなともおもってます。YouTubeという媒体とこのチャンネルの親和性が高いのは、「更新」されることなのかな…。みる順番や、回数によってもシマリスたちへの感覚は少しずつ変化するはずです。 ちゃんこさんはYouTubeのこれから(=新しさ)を感じられるYouTuberさんはいらっしゃいますか?

 

ちゃんこシマリストきむらさんは私も最近見始めた方です! チョピまるさんがおっしゃる通り、あのチャンネルは動物動画における「かわいい」という「枠」を超えた先の「動物と人間の関係性」を伝えようとしていると私個人的に思います。 ただ「かわいい」だけで終わらせるだけではなく、「動物を飼うということ」などを伝えるというのは視聴者にとっても大事なことですよね……。 さて、私が今感じているYouTubeが動画という「枠」を超えてこれから(=新しさ)を感じるYouTuberは笠希々さんです 通称りゅうさん、と呼ばれるこの方はアニメレビューブログ*1を運営しておりまして、その内容を動画にするという手法はまさにYouTuberとブログという職業の枠を超えて、YouTubeの可能性を広げている方だと思います。 今やアニメは3ヶ月つまり、1クールという期間の間に20~30作品も放送されております。 時間が足りないと言われるこのご時世です。いくらアニメを好きと言っても全て追うことが難しいです。 そこで、ちょっと前であればTwitterやブログなど、インターネットで検索して「読んで」いたのですが、今の時代は「文章」より「動画」の方がより多くの人に見られます。 そんな今の時代に需要があるのがこちらのチャンネルです。 りゅうさんはアニメですが、他の方は映画レビューなど、一昔前であればブログネタになっていたものが今ではYouTubeに土俵を移しています。

このようにYouTuberは趣味の枠を超えて在宅ワーク、在宅ビジネスの1つとして浸透してきているのだと私は考えます。 よく、「小学生がなりたい職業ランキング」などでYouTuberが出ており、嘆かれていますが、もしかしたら近い未来、それも大人の間でも受け入れられ、浸透する日が来るかもしれませんね…。 

(続く…)

 

【つづきは明日2/19にちゃんこ様のブログにて公開予定です!公開されましたら、下にリンクを貼ります!】

 

chanko-bamboo.hatenablog.com

*1:笠希々さんのブログはこちら↓

【超絶(?)予告】来週、本ブログで起こることについて!!

 

 

 こんにちは!こう見えても月並みの言葉が一番心に響くタイプでミーハーなブログ主・チョピまるです!分析ブログ以外を書くのはひさしぶりかつ、めずらしいことなので若干緊張しております。

 

 ミーハーさって、たぶん「更新されていくもの」が好きなんだと思うんです。完全なる私見なんですけどね…汗。というわけで、ブログ主、いつも新しいものに挑戦したくなる性分があります。(ビビりのくせに!厄介です!)

 

 このブログでも何か新しいことができないか…といつか考えているんですが、YouTube見ていて思いついたんです。そして、尊敬するブロガーで仲よくさせていただいているちゃんこさまid:chanko_bamboo)に勢いで提案させていただきました。そうしたら、協力して実現したんですよ!!!ということで、来週の月曜日から、ちゃんこさまと…

ブログでのコラボをします!!!!!!!!!!!!やったー!!!

 

 ブログでのコラボはまだ珍しいかもですね??どんな感じなのかは来週、見ていただければなっと思っております。ちなみに、している本人たちはたのしかったです。(それだけでもよかったなと思っちゃったくらいです!)

 

 おそらくスタートは、ちゃんこさまのブログになるのでぜひぜひチェックしてください!(ちゃんこさまのブログ↓↓)

chanko-bamboo.hatenablog.com

 

 

っということで、今日は予告をさせていただきました。

それでは、また次のブログでお会いしましょう!

 

 

【㊗アカデミー賞受賞企画】ポン・ジュノ監督『母なる証明』“運命の殺人”描写の妙~選択無き悪への導き

 

 

 先日、アカデミー賞が発表されました。作品賞を含み、4つの部門で受賞を果たしたのが、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』(2019)でした。今回はそれを記念して(というのもおこがましいですが)このブログでポン・ジュノ監督の「すごさ」を少しでも感じていただければ…と思いポン・ジュノ監督の過去作より、『母なる証明』(2009年、韓国)における“運命の殺人”描写の妙という点に注目して書いていきたいと思います。

 

 

 

作品概要

 

 

あらすじ

 

アマゾンDVD紹介ページより引用します。

 

漢方薬店で働きながら一人息子のトジュン(ウォンビン)を育て上げた母(キム・ヘジャ)。二人は貧しいながらも、母ひとり子ひとりで懸命に生きてきた。息子は、内気だが朗らかな純粋な青年であった。ある日、二人が住む静かな街で凄惨な殺人事件が起きる。一人の女子高生が無惨な姿で発見されたのだ。事件の第一容疑者として、トジュンの身柄が拘束された。彼の無実を証明するものは何もない中、事件の解決を急ぎ警察は形ばかりの捜査を行い、トジュンの逮捕に踏み切ろうと画策する。一方、弁護人はやる気もなく、有罪判決は避けられないように見えた。無実を信じる母親はついに自ら立ち上がり、息子の疑惑を晴らすため、たった一人で真犯人を追って走り出す。

 

 

www.youtube.com

 

 

【以下、ネタバレ注意!!!!!】

 

 

 

「双・対・二」にまつわる数学的関係性

 この映画では、数学的ともいえるような精密な登場人物の関係性と登場人物の人数にこだわりが見られる。象徴的なのは、殺人犯との疑惑のかかるトジュン(ウォンビン)を中心とした二つの関係性だ。

 

トジュン(ウォンビン)―ジンテ(チン・グ):代補関係

トジュンとジンテは、必ずトジュンの出来ないことを代補するジンテという関係になっている(少ないが逆もある)。例えば、以下のような例がある。

 

  • ジンテが壊したベンツのミラーをトジュンは壊せなかった。
  • ジンテの罪をトジュンは被った。
  • ひき逃げした教授たちに対する襲撃はジンテにはできたが、トジュンにはできなかった。
  • 飲み屋の娘である、ミナとジンテは交際・性交していたが、トジュンはできなかった。

 

 このような二人の関係性が強調されて現れているは、「母」(キム・ヘジャ)が弁護士とスナックで会談し、帰宅した後のシーンに見られる。描写をしてみよう。うしろからバストショットでとらえられた上半身裸の男。振り返る直前でトジュンであることが強く示唆される。男がはっきりと映る直前で、「母」のアップショットに切り替わる。そうして、もう一度切り返されるとその男がジンテであったことが判明する。このつなぎ方(編集)は、トジュンとジンテが「似ていながら違っている」ことが、トジュンの存在できない場所にジンテが存在していることで表象されている。ここでは、短いカットのつなぎの中で明らかに二人を入れ替えさせることによって、二人の代補的な関係(=対)を明示しているといえるだろう。

 代補関係(=対)は、ジンテができれば、トジュンができず、トジュンができなければジンテができるという一種の機械的法則を作り上げる。この法則によって二人はどちらかの行動によって自分のできる/できないことが“決っているのではないか”という運命性(行動が意志的かどうか)について疑惑を負うのである。

 

トジュン(ウォンビン)―「母」(キム・ヘジャ):合一関係

 トジュンと「母」は、相似的に行動し、同じようになるという関係性にある。それは冒頭から示唆され、「母」が殺人を起すことより鮮明化される(「母」がかつてトジュンを巻き込んで無理心中しようとしたことと関連性は高いか)。大きく分けて、二つのシーンで示唆がなされる。

 

・冒頭:薬草を切る「母」の手のショットと外で犬と戯れるトジュンのショットが切り替えしでとらえられた後、「母」の手に薬草を切る為の刃が接近していく。「母」の手が切れるのではないかというサスペンスが起こる。この結果として実際に母の指が切れる瞬間、それと同時にトジュンがベンツに轢かれる。このとき、切り替えしで「母」の手とトジュンが映され、並列のものとして扱われてから、予告された「母」の手に起こる災難がトジュンにも適応されることでこの二人が相似的に並列される(受傷の共有)。

 

・殺人:「母」が殺人を犯し、その床の血をふき取ろうと奮闘するとき、トジュンが同じように焦っている姿がワンショットのみ挿入され二人の相似性が顕示される。また、このとき「母」は「どうしたらいいの?お母さん」と叫ぶが、このとき二人がまるで合一化したような錯覚を起させる。

 

 合一関係(=双)も、トジュンと「母」には片方がしたことは片方がしなければならないという機械的な法則を示唆される。ここにも意志の有無への疑惑を生じさせることとなる。ちなみに、人物配置でも「二」へのこだわりが垣間見える。

 

  • 少女性を持ちながら実はセクシャリティと深く関わる少女としてミナとアジョンの「二人」が登場。
  • 写真屋を訪れていたのはアジョンとその友人の「二人」。
  • 「母」がアジョンの友人を見つけた際、その友人は女友達と「二人」でいた。
  • アジョンの友人を襲い、アジョンの携帯とその中の写真について証言した男も「二人」である。

 

 

 

隣接する相対的感情~意志の不透明、意味の不可能

 行動と意志の関係性のアンバランスさを表すものとして、情念と理性という二項対立的なものが、この映画において表裏一体のものとして表現されている。突如として理性の状態から情念にかられた人物たちは、何かに「かられ」行動を起こす。自分の起こした行動に、人物たちはしばしば、恐れおののく。まるで自分の意識が介在していないようだ。運命性が発露する。

 

 まず、感情の問題でいえば、無表情から激高が発生するということに見られる。無感情から過感情が直接つなげられるのだ。殺害された少女の葬儀では、その場で一番冷静に見える女性が「母」を殴る。ほぼワンカットの内に無表情が激高へと変化する。それだけではなく、ジンテが真犯人を探すために拷問を行う際にも、ジンテの無表情のショットの直後に蹴りという暴力的アクションへ瞬時に移行している。

 

 

 

二つの殺人と「運命」~選択から排除されるものたち

 暴力だけではなく、映画内で起こる殺人も犯人の意志の外で何かに「かられること」で引き起こり(このとき登場人物たちは「選択」から除外させられる)、犯人は自らの行為にパニックになる。意志外のことで決定的な行動(=殺人)を犯してしまうという運命性が発露する。「選択」からの除外=運命性の発露(不可避な事態、不可能性)。

 

トジュンの殺人

 少女の「バカ」という言葉に反応したトジュンが石を投げると彼女に当たったことで発生。殺人直前の表情はすりガラス越しのショット、ロングショットで良く見えないが、叫んだり怒ったりしている言動はしていない。ここでのポイントは、トジュンが「バカ」と言われると、必ず激高して相手に暴力・暴言をはたらくことが映画内で何度も繰り返されていたことだ。つまり、「バカ」という言葉は、トリガーになっているため、暴力はもはや条件反射的に起こる行動だ。まるで機械がボタンを押されて作動したように、(カットが切られないまま)スムーズな動作で石をなげる。彼は、投石機械と化してしまう。

 そのためか、トジュンは殺人の後、携帯を何度もあけたり、閉めたりして、また倒れた少女に向かって「なんで寝ているの」と声をかけるなど呑み込めていない様子だった。このとき、トジュンは「選択」から除外されている。

 

「母」の殺人

 トジュンが、犯人であることを証明する「傘の男」は、それを警察に証言をしようとしたところ、「母」がスパナで撲殺する。「母」は、男の証言を嘘だと言って興奮し、トジュンが不起訴になることを「傘の男」につげ号泣している。しかし、男が警察に証言をするために電話をかけようとするとき、母は後ろ向きになっていて、嗚咽等の声も聞こえない。この直後に殺人が起こるため、ここでも感情と殺人という行動の間に断絶が入る。しかし、流れた血を見てすぐに驚きおびえた表情へと変化する。自らの犯した殺人を始めた認識したかのように恐れ、あわてるのだ(=意志(意識)外の行為=運命性の発露)。

 

感情の不透明―/断絶/→殺人―/断絶/→焦燥

 

 

 

「運命」はただ回る「機械」と同じ

 意志とは関係のない殺人は、偶然性からくる「運命」を感じさせる。犯人たちは、とっさに条件反射のように「人を殺す」という禁忌を犯す。「殺人」や悪などには、理由などないといわんばかりに、ただ「運命」的に回るだけの「機械」が引き起こした結果ともいえるだろうか。*1*2

 

 

 

 だから、息子を殺人犯になるという運命から救い出そうとした“母なる正義”も、皮肉なことに、殺人を引き起こし、犯人である息子を隠匿し、ほかのものを犯人へ貶めるという絶望感と「恐怖」を引き起こしていく。「選択」から排除され、機械の部品とされたものたちは、そのときの人物たちはその運命にほとんど抗わない(例外は「母」がトジュンの無罪を証明しようとすることのみ)。その顔は、無表情で諦念があらわれ、声を荒げることもない(声を奪われた「無言の民」と化す。やわらかな無言状態)。ラストシーン、「母」はある方法ですべてを忘れようとする。そのときの動き、表情がこの映画を物語るハイライトなのだろう。

 

 

 

 

 

 

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おまけ…

 本原稿は、約3年前に大学で発表をおこなったときのものを参考に再構成しています。当時の研究室の仲間とめっちゃ悩んだ日々がとても懐かしく思いました。

 

 そう、過去記事でちらっとだけ言及したことがあるのですが、この分析ブログの基礎になっているのは大学時代におこなっていた映画研究です。その駆け出しのころ、授業で発表することになった作品が『母なる証明』でした。ポン・ジュノ監督の作品が大好きで、怖い担当教員に直談判して発表させてほしいとお願いさせていただいたのでした。実力不足のわたくしでしたが、本作の作品としての力に相当助けられた思い出がございます。そして、同期の仲間との共同発表だったので、同期の発想力や実力にも助けられました。そんなこともあり、ポン・ジュノ監督の受賞を超個人的ながら、感慨深かったのです。

 

 ちなみに、2003年も『殺人の追憶』のほうも大好きな作品です。たっくーさんにもちらっと言及されてましたので、おすすめさせていただきます!

 

 

 

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*1:ミシェル・カルージュ(高山宏・森永徹訳)『独身者の機械』(ありな書房、P62)

「普通の死刑囚が陶酔を覚えるとすれば、それは前司令官の図案/意図(dessins/desseins)が機械の動きと人間の運命を司っているからだ。つまりひとつには「高所の掲示」が厳然として存在して、これが人の肉体に刻字されているからであり、またひとつには、「下方の掲示」が恐ろしい閃光を放って「高所の掲示」を明らかにするとき、その苦痛が死刑囚に救済をもたらすからだ。」

*2:黒沢清・篠崎誠『恐怖の映画史』(青土社、P196)

「単に残酷に死ねばそれで衝撃的なんだということではなくて、死の歯車が回りだすと、もう止められない。一直線に進んでいく。ある機械的な動きですね。それは死である。機械と死。」

【大人の絵本】過剰、過疎、奇天烈、怪異、摩訶不思議~『ギュスターヴくん』【ヒグチユウコ】

 

 絵本は子供ものか。否。近所の本屋には、絵本コーナーに大人が真剣な眼差しでたたずんでいる。その一角、名作だらけの中でも特に目を惹かれた作品があった。ヒグチユウコの『ギュスターヴくん』だ。一目惚れ状態で手に取ったこの本は、ただものではなかった。今回は本作について分析などしていきたいと思う。

 

 

【以下、ネタバレ注意】

 

 

 

www.hakusensha.co.jp

 

 

過剰

  表紙を見ただけで分かる通り、ヒグチユウコの絵は、キャラクター的なものとは明らかに違った「過剰」な細かい線、書き込みで構成されている。たとえば、中心にある猫の顔。「かわいらしく」、「リアル」だが、それは実に微細で大量の線や点によって形成される。瞳の虹彩部分は、猫のその複雑な色彩を小さな点が支えているようにもみえる。さらに、題名の「GUSTAVE」という字もそれぞれ別の装飾が施されている。とくに「S」はびっしりと小さな丸が大量に敷き詰められた。おそらく、この線や点は人の目ではすべてをはっきり認識できないほどであり、認識の範疇を超えた過剰なものである。ヒグチ本人は、伊藤潤二との対談において以下のように語っている。

 

 

 伊藤 ヒグチさん、空白恐怖症みたいなのはありますか。

 ヒグチ ありますね。描きすぎちゃう癖があって、過去の絵も画集で自分で見て「もっと描けたのに」って思うのの繰り返しだったり。だから今は逆にそれを克服ではないですけど、あまり考えなくなりました。

――『文芸別冊総特集 ヒグチユウコ指先から広がる魔法』P136

 

 

 

 空白への恐怖。それはいいかえれば、密集(≒過剰)への偏愛ともいえるかもしれない。しかしながら、過剰も「集合恐怖症」にみるように、「恐怖」との親和性が高い。全体を見れば、かわいらしかったり、きれいだったりする絵でもより近くで見れば(絵本という媒体はそれを可能にするものだ)うごめく黒い線の塊なのだ。ギュスターヴくんとともに多くの紙面を占めるわにくんも、見た目はかわいいながらも鱗も含めてその表面は無数の点と線が共存する。どんなにかわいい生物も無数の細胞の集合体だ。生物の持つ隠れたグロテスクが表象されている。

 

 

 過剰は、ギュスターヴくんの存在にも関係する。本の帯にも書かれているように、わにくんは冒頭にこのように問う。「きみは ネコなの? ヘビなの? タコなの?」。そう、ギュスターヴくんは、顔がネコ、手がヘビ、足はタコという容姿をしており、さらに「ギュスターヴ」という名は、フランス系の男性の名前でもあるが巨大なナイルワニの一種でもある。

 

ja.wikipedia.org

 

 一つの形態ではなく、多数性の合成。しかも、猫=哺乳類、ヘビ=爬虫類、タコ=軟体動物と類もばらばらなものの融合は非常に危うく見える。本人も「ネコかな」「ワニかな」と自分のがなんなのかについては断言しない。とくに、手の位置にあるヘビには立派に顔までついているので、手だけが意志をもってしまいそうな危うさもある。

 

 毒を持つヘビや、ぬるぬるとして這うように動くタコという生物は、悪的な気持ち悪さをはらむ。ディズニー『リトルマーメイド』のアースラは、人間とタコのハイブリットである。ギュスターヴくんは、その全体像に反し悪的ともいえる「気持ち悪い」細部でなりたっている。生物のグロテスクさは位相違いでギュスターヴくんそのものにも関係している。

 

  しかしながら、怪物や悪役になりそうなギュスターヴくんが全体像としてかわいらしく見えるのは、細部を全体性が覆い隠しており、さらに絵本ならではの「過疎」も関係しているのかもしれない。

 

 

 

過疎

 

 絵本という媒体はどういうものか、少し考えてみたい。多くは子供向けに作られているということもあり、子供たちが飽きないように短い構成だ。多くは1ページ~2ページを(漫画でいうところの)一コマとして、絵と文章が配分されている。絵と文章の比率は、だいたい絵の方が圧倒的に多く、情報量としては「過疎的」だ。現代では映像などの媒体もあるのでこの映像の量が非常に「過疎的」にみえる。そして、『ギュスターヴくん』の画角はとくに図鑑な構図(本から飛び出す様々な生物の配置)で平面的(陰影や運動線の抑制)なためにより、画が非常に静物的になっている。だからこそ、タコ的やヘビ的な動きが抑えられ、気持ち悪さが軽減され、細部の過剰さのグロテスクさも隠される。

 

 

 物語も、「過疎」的だ。本作は、簡単にいうと「ギュスターヴくんの持っている不思議な絵本からギュスターヴくんが増殖する」→「そのギュスターヴくんたちがいたずらで絵本からさまざまな生物を出す」→「ワニくんがそれをとめようとする」→「ギュスターヴくんたちがワニくんに反撃」→「話し合ったギュスターヴくんたちは生物たちを絵本に返し、もといたギュスターヴくんだけが残る」という話だろう。つまり、物語としてはA→B→Aという回復型(原状復帰型)といえる。しかし、ここには絵本にみられがちな「教訓」などが介在せず、全体的に意味の喪失してしまったような一種の「アナーキズム」がある。ヒグチも本作について以下のように話している。

 

 

 昔から、ああいう何の教訓もない話しを描きたくて。個人的に勧善懲悪とか、ヒーローがいて、敵がいて、みんな守られてみたいなストーリー者にあまり魅力を感じないというのはあります。〔…〕すごく単純な話でもあるんですよ。「だから何?」っていう態度だから。

  ――前掲書(ヒグチユウコ単独インタビューより)P50

 

 

 

 「教訓のない話し」は、単純でありながら還元できない。意味から浮遊したこの物語は、やはり過疎的であり、絵の細部に宿る過剰さとは反比例している。

 

 

  また、表情の変化の少なさ(「過疎」)は、ギュスターヴくんたちの顔の造形にフランス人形のような少し「怖い」美しさを付与している。思えば、「フランス人形的な美しさ」とは、幼さ(ベビースキーマ)を永遠に保存してしまったような罪責を帯びた美しさと人形の材質の陶器的な透明度や装飾の壮麗さという美しさの融合だ。だからこそ、そこには、「かわいさ」「怖さ」「危うさ」「美しさ」という複数性がともる。過疎から、再び複数性が生まれるという運動がおこる。

 

 

 

奇天烈、怪異、摩訶不思議

 

 以上のように、本作では、「過剰」と「過疎」という二つの状態が同時に存在し、読みすすめている個所、読み手の見方によって過剰・過疎が往来していく。過剰と過疎の往来は“なにかありそうでない”(≒なさそうである)という感覚を常に提供していく。

 

 これは、独特の世界観につながっていく。本作には、西洋っぽくも東洋っぽくもある。登場人物の洋装、細部の書き込みとリアルさ(過剰)は明らかに「西洋っぽい」。さらに、ワニくんが捕らえられたシーンは『ガリバー旅行記』の表象のようだ。平面っぽく、陰影のない造形(過疎)、登場人物の擬人化、なんとなくニヒルな表情と「いじわる」な造形は、歌川国芳の浮世絵の世界観のようだ。

 あるいは、寓話っぽくもあり特撮的でもある。裏に含まれた怖さはグリム童話的な雰囲気を醸し出し、同時に「怪異」の描き方、ギュスターヴという名前付け方と合体した怪物の造形は、円谷プロのようだ。「~ぽくて~ぽい」という過剰さは「~ぽくても~ではない」という過疎にもつながる。この世界観は、何度読んでも統一されない。見るたびにあらたな発見を呼び起こすスルメ的な作品だ。もはや、“奇天烈、怪異、摩訶不思議”という形状としか言えない本作はまちがいなく全世代向けだろう。

 

 

 

ギュスターヴくん 豪華手帳つき限定版 (MOEのえほん)

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『猫丈記』~その一.「猫と暮らして一年、倦怠期なるものはあるか。」

 

 わたくしは、非常にうれしいことに猫と暮らし始めて一年が経ちました。ということで、節目に猫との日常を随筆形式に書いていこうとおもいます。

 

 題して、『猫丈記』。ちょっと、ストレートすぎる題名ではありますが、猫との日常を微視的に書いていくので、楽しんでいただければありがたいです。

 

 

 

一緒に暮らしている猫:まるくん(仮名)を紹介

 わたくし自身もこのブログなどネット上では仮名なので、相棒の猫も仮名にしたいとはおもいます(でも、ちゃんと実在してますよ!ブログアイコンはまるくんなんです!)。以下、なんとなく彼の基本情報をご紹介します。

  • まるくん
  • 性別:オス
  • 年齢:一歳
  • 品種:マンチカン(並足)、シルバータビー
  • 好きなこと:とにかく食べること
  • 性格:甘えん坊、かしこい

 

 それでは、『猫丈記』その一本編です!どうぞ!!

 

 

 

『猫丈記』~その一.「猫と暮らして一年、倦怠期なるものはあるか。」

  猫という生き物と同棲し始めて一年。人間同士でも時間が経過すると出てくる「倦怠期」はやってくるのだろうか…。いや、全然ない。本当にない。お世話の手順や遊び方、なにかおこったときのまるくんの反応などにはもちろん慣れてきているのだけれど、「慣れ」はあっても「飽き」にはつながらない。

 

 恋愛でいうあの感覚の鈍化が一年以上ゆるやかに続いているようだ。まるくんは、一年以上一緒に暮らしているわたくしや家族には遠慮がなくなっているようだ。とくに、わたくしには遠慮のなさが強烈で、朝は自分が起きた段階で耳元に大きな声で「にゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃ」と何度も叫ぶし、気に入らないことがあると容赦なく蹴飛ばしたり、踏みつけたり(爪が食い込んで地味に痛い)、静かだなあとおもったら二人掛けのソファーを占領しておっさん臭いポーズで寝ていたり…。でも、あばたもえくぼ状態なのだ。この感覚の鈍化は確実に恋愛に似てる。

 

 

 人や状況によってさまざまではあるだろうが、一説として“猫と暮らすのに倦怠期は無い”を提唱したい。「慣れ」はあるのに、ときにハッとさせる天才があるからだろうか。ふとしたとき、横に近づいてきたまるくんは、まるで写真の中にいるように美しいときがある。ささっきまで、まぬけな顔で寝ていたからこそ、思わずハッとする。

 

 あとは、眼。これはまるくんだけではなく、ペットショップの猫ちゃんたちや、猫カフェ、譲渡会などあらゆるところで出会った子たちにもハッとさせられる。彼ら彼女らの眼は、写真で見るよりも実際に見た方が美しい。正面からみたときの瞳の色の複雑さと形容しがたい輝き、横から見たときのみずみずしさ。猫は目を合わせすぎると交戦の合図にもなってしまうので、ちょっとしかみられない希少感が美しさを増長させる。

 

 

 

 そのうえ、もはや「かわいい」としかいいようのない場面にもよく遭遇する。象徴的なのは、なにかしてほしいときの足元へのすりすり攻撃や甘えたタイムのごろごろだが、それ以外にもこんなことも起こる。普段、つんとしているのに悪いことをして怒られた後の肩を落としている姿を見ると、いたずらも許してしまうほど「かわいい」。

 

さらに、こんなことも。わたくしが出かけたとき。家族によればねぼけたまるくんが家中わたくしの姿を探し求めたらしい。だれもいないちょっとリビングから離れたわたくしの部屋に向かい、姿のなさを確認して子猫時代のように鳴いていたのだとか。その後、わたくしが帰ってくると、玄関まで迎えに来て、姿を見るとすねたようにリビングの端っこのテーブルの下に立てこもる。わたくしが「出てきて」といっても睨んでくるのみだ。なのに、10分後には自分から寄ってきてくまなく匂いをクンクン嗅いで、しまいには甘える。留守番にすねて怒り、でも甘えてくる姿が普段のつんつんタイムと違いすぎてかわいい。もはや、かわいいとしかいえない。

 

 この「美しさ」「かわいさ」⇔「気の抜けた」「腹が立つような」の短期間での交代が、ハラハラしてハッとして、「慣れ」に「飽きた」を付与しないのだろう。しかも、冒頭に恋愛的感覚の鈍化に似ているといったが、「かわいい」ときには「母親」のような気持にもなる。母親になったことがないのでわからないが、これが母性のようなものなのかもしれない。そういえば、動物病院ではわたくしは「ママさん」と呼ばれる。

 

 猫はくるくる変わる。だから、わたくしの気分や立場もくるくる変わる。だから、「慣れても飽きが来ない」。猫との関係に「倦怠感」なんてない。私的結論。

 

 

“「笑い」ってなに?”を少々まじめに考えてみた【ミニミニ哲学】

 

 

 「笑い」は面白い概念だと思います。そのメカニズムを言語化しようとすると、「笑い」から遠ざかってしまうからです。しかし、このような複雑なものだからこそ、考えてみたいと思ってしまいます。なんというか…変な性分です。

 

 今日は、その第一弾を書いていきたいと思います。考えがまとまったらその都度、第二弾、第三弾と続けていけたらというのが理想です。そして、回を追うごとに「笑い」の本質に近づいていくように努力していきたいと思います。

 

 

 

「笑い」研究の先駆者ことベルクソン

  ベルクソンは、1900年に『笑い』(原題;Le rire)において、「笑い」という概念やその分類を体系的に示している。「笑い」を知るには避けられない名著である。ただし、『笑い』という本は、なかなか理解するのが難しい。そのため、ここでは非常に簡単になるがその内容について触れていきたい。

 

 ベルクソンは「笑い」の根底にあるのが、「機械的なぎこちなさ」だ。ベルクソンの笑いの例として挙げられるのは、“つまずいて転ぶ”というシチュエーションである。

 

 

こわばり、あるいは惰性から、事情がほかのことを要求していたのに筋肉が同じ運動を続けたのである。それゆえ男は転び、それを通行人は笑うのである。(P18)

 ――アンリ・ベルクソン『笑い』(原章二訳、平凡社、2016年)

 

笑いを誘うのは、注意深い柔軟さや生き生きとした屈伸性がほしいところに、一種の機械的なぎこちなさが見られたからである。(P19)

 ――前掲書

 

  この二つの文では、“本来はそうあるべきだった状態”―あるいはエラー無くスムーズに進行している状態―(例、歩いている)が何らかの形で、“機械的にぎこちない状態”―一種のエラー状態―(例、転ぶ)へと移行するところに「笑い」が生じるというのである。そして、この「笑い」は、社会的なものであるともいう。少し長めの引用だが重要な点なので書き起こしていきたい。 

 

社会は人間が絶えざる相互適用の努力をなすことを求めている。したがって、性格と精神のこわばり、そしてまた身体のこわばりも、社会にとってはすべて心配の種となる。なぜなら、こうしたこわばりは活力が眠りこむしるし、あるいは活力が分離し孤立して社会の描く軌道から外れてゆくし、つまり離心のしるしかもしれないからだ。〔…〕社会はなにか気がかりなことに直面しているのだが、それは兆候としてあるにすぎない。――脅威というほどではなく、身振り程度にすぎないのである。したがって社会もまた、単なる身ぶりによってこれに応える。笑いとはそうしたもの、つまり一種の社会的な身ぶりではあるまいか。笑いは笑われる者に不安を抱かせることによって、離心者たちを抑制し、ともすれば孤立して眠りがちな一部の傍流的な諸活動をたえず目覚めさせ、それらを相互に接触させるのだ。要するに笑いは、社会的身体の表面にのこる一切の機械的なこわばりを柔らかく揉みほぐし、しなやかにするのである。(P26~27)

 ――前掲書(注:下線引用者による)

 

 

 以上の文を著者なりに解釈すればこのようになるか。「機械的こわばり」(=「機械的ぎこちなさ」)は社会という大きな流れのスムーズな運行に対し、一瞬現れる微細なエラーだ。このエラーは、いまだはっきりとはしていない兆候(≒「身ぶり」)程度だが、やがて大きな流れを乱すものになるかもしれない。その反抗の予兆を抑制するものとして、「笑い」は存在するのだ。「笑い」は、「笑われる」ものに自身がエラーになりうることを自覚させ、不安にさせる(笑われるのは意図してない場合、苦痛である場合も多い)。そうして、「機械的こわばり」を社会という全体の流れになじませるのが、「笑い」だ。その意味で、「笑い」は「社会的な身ぶり」なのだと。

 

 

 

 

「笑い」はなぜ個別的なのか~「笑い」と親近感

  以上のようにみれば「笑い」は、社会的な反射のようにもみえる。「笑い」は個人的なものに見えて、社会性から導き出されている常識的な振る舞いが反射的に出ているということだ。ベルクソンの「笑い」の概念にはさらなる解釈の検討が必要なのは間違いないが、少なくとも、人々の生き方がより多様化した現代においては「笑い」が「社会性の学習」から導かれるものとはいいがたいのではないか。

 

 確かに、「笑い」は社会的なものと不可分という側面もある。時代や地域によって「笑い」の対象(“何がウケるか”)や「笑ってよい」対象(笑いとコードの問題)は確実に存在している。ただし、そのなかでも個人によって“笑いのツボ”は存在しており、「おもしろい/つまらない」論争や、どちらがおもしろいか論争は最近でもよく聞かれる。

 

 つまり、(現代では)「笑い」と「社会」の関連はある一定のレベルまでにとどまってしまう。ある一定よりさらに個人的な視点で見ても「笑い」と不可分な要素はなにか。今後、本ブログで問題にしていく点はここだ。今の時点でキーワードになると考えるのは「親近感」だと考える。ひとりひとりパーソナルスペースが異なるように、「親しみ」をかんじる範囲は違う。「笑える/笑えない」のとらえ方が違うのだ。名作コメディ映画や名作漫才が、何十年も経つとかなり形式がかわっていたり、古典喜劇が高尚すぎて笑いどころのわからなくなっていたりとうのも「笑い」と「親近感」の関係性を示唆していると思われる。

 

 また、「笑い」がその時代もっとも影響力を持った媒体に親和性が高いのもそのためではないか。映画ではコメディ、テレビでは漫才やコントやバラエティ、YouTubeではおおくのコンテンツで、「笑い」は提供され、伝播してきた。いや、「笑い」は「親近感」のある場所を磁場として発生しているのではないか。第二回以降では、「笑い」と「親近感」についてより深く考えていきたい。

 

 …つづく…

  

 

笑い/不気味なもの (平凡社ライブラリー)