猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【日テレ系ドラマ】『そして、誰もいなくなった』における女性的美しさと悪

 当原稿は、悪への思考(もともとの研究テーマです)をするときに、大きな影響を受け、2016年当時、勢いで書き、優しい友人の一人にだけ「こんなんかいたよ~」と見せたものです。あのころ、おもしろいといってもらってとてもうれしかったことを思い出します。本作の主人公・藤原竜也さんとその敵役・伊野尾慧さんの最終回の演技のぶつけ合いはいまでも印象深いです。

 

 

 『そして、誰もいなくなった』(日テレ、2016)における、主人公・藤堂新一(演:藤原竜也)を陥れようとして生きた一連の事件の首謀者である日下瑛二(演:伊野尾慧)は、美しさ―偽性を身体にもっていた。その美しさは、(日下自身、ミソジニーであるにも関わらず[i])女性性と母性を呼び込み、他人を自分と同一化しようという欲望と相まって、増殖の悪と結びついていた。以上のことについて、具体的に見ていきたいと思う。

 

 まず、美しさ―偽性が悪の周縁にあるということについて、日下が証明するような身体をもっていることについて見ていきたい。美しさ―偽性と悪について、中村(2012)は、「美はまた、やはり空無な仮象にかかわることによって、悪と通じ、結びつく。」[ii]、「善と美との違いは、前者がそれぞれ存在・本物・神にもっぱら関わるのに対して、後者がそれぞれ仮象・贋物・人間にかかわることにある。いいかえれば、美は贋のものであり、人間のものである。」[iii]と指摘している。つまり、美しさは「仮象」=本物ではないもの=偽性と大きく関わるものであり、そのことによって善から離れ、悪に近づくというのである。

 以上のことを前提として、日下について見ていこう。日下は様々なレベルで偽性を持つ人物である。物語上の人物設定でいえば、ドラマ上「本物」の国民ならば持っているはずのパーソナルナンバーを持ち合わせていないこと、「本当」の名前が「ともや」であり日下は偽名であること、実の母親である藤堂万紀子(演:黒木瞳)に実の息子としての「位置」を与えられず養子として育ったこと…など複数の事柄によって偽性が見られる。また、これが、彼の人をだまし(これ自体偽性を持つ行為)、殺人を教唆し自らも実行するという悪を行うことの原動力となっている。つまり、偽性が悪の周縁にあることを示唆するものであるのだ。

この偽性は、当然のように日下の身体にも適応される。例えば、新一を騙すために、日下は手下である馬場(演:小市慢太郎)に自分の手のひらを撃たせたときを見てみる。このとき、使われたのはライフル(形からは自動小銃アサルトライフルを思わせる)という殺傷能力がきわめて高い武器であり、手を銃口にあてた状態で手を打ち抜かせたため、普通ならば手は原型をとどめないような状態となっているだろう。しかしながら、最終回で包帯を取り去り、明らかにされた日下の手の傷は小さなバツ印で収まるほどのものであり、細く指の長い、どちらかといえば女性的美しさをもつ彼の手[iv]は、保存されるのである。これは、彼の身体が偽性によって美しく保存されていることを象徴的に示すだろう。

このことは、もちろん日下の身体そのものが自身選択された画面=ショットによる像=偽性であることで、日下が美しく保存されているということでも示されていくのだ。その象徴は、最終回の新一と日下が直接対峙するシーンである。日下が、新一に万紀子が裏切り者であるとつげているとき、画面は日下と新一の二人のアップショットの単純な切り替えしでとらえられているのだが、このとき、背景が明らかに選び取られているのは日下の方である。新一の背景が障子の白さで飛んでおり顔が映えないものが選択されているのに対し、日下の背景は濃い緑であり、彼の白い顔が映える背景が選びとられているのだ(たまに映る万紀子の顔の背景は破れた障子というありさまである)。これは例えば、『流れる』(1956年、成瀬巳喜男監督)における山田五十鈴の背景が特権的に美しかったような手法であり、この美しさは明らかに女性性を帯びていることが分かる。

 

以上から、日下のもつ偽性から守られ選択される美しさがあることがわかったが、それはにわかに女性性に結び付き、美しさ―偽性が、悪の周縁にあることを証明していく。日下は、母親の万紀子がお金のための再婚を成立させるためにかれを捨てた上に、義理の息子である新一に「私の愛する息子は新一だけ」と発言したという根源的な悪=人は自分の利益のために平気で他人を裏切ることを自分のなかに取り込んだ、いわば、もともと母親の悪と同一化している人物である(そのため、彼も自分の欲望のために新一らを平気で裏切った)。そのことは、彼自身が新一を貶めるために周囲の人物の欲望を刺激して新一を裏切るように仕向けること、つまり、他人を自分や母親の悪と同一化させ、根源悪を増殖させていくことと、彼のもつ美しさも相まって日下に女性性を持たせていく。この同一化と増殖は美しさという魅力がその実現可能性を増幅させているのは明らかである。家出少女である君家(演:桜井日奈子)は、拒否はされたものの日下に接吻しようとしていたし、特に利害関係が感じられない馬場が彼のために犯罪という悪を重ねたのも日下の美しさに惹きつけられたからではないだろうか。[v]

この増殖は、悪を一つの身体にとどまらせないだけでないという悪の時間的・空間的拡張に寄与しているという意味で悪であるだけでなく、増殖自体(拡大解釈すれば女性性)自体が悪といえるのである。カフカ(1996)は、「悪の誘惑手段のうちでもっとも有効なものの一つは、〈戦い〉への挑発である。それは、ベッドで終わる女性との戦いに似ている。」[vi] とし、悪に至るのに一番の誘惑が性交(生殖)であることを示している。また、さらに次のようにも述べている。

 

 この世の誘惑手段と、この世がひとつの過渡状態にすぎないことの保証の徴とは、おなじことだ。当然である、そうであってこそこの世は誘惑することができ、それは真実に合致するからである。よろしくないのはしかし、誘惑が功を奏したあと、われわれが過渡性の保証のことを忘れてしまい、結局こうして善がわれわれを悪のなかへと、女の眼差しがベッドのなかへと、誘い込んでしまったことだ。[vii]

 

ここでは、この世が常に(古いものから新しいものへと)更新されるその途上であり、その中の存在(つまり中間体)でいることが善、女の眼差しがいざなうベッド(性交への誘い=欲望に従属すること)が悪とされている。この時の悪も性交(生殖)、それがつながる増殖と関わっており、善=中間体であるとすると、悪=絶対的な状態とも考えられる。このとき、「女の眼差しがベッドのなかへと」とされていることは、特筆すべきだろう。ここでは、女性性のあるものが悪へと導くことを強く示唆するからである。これは、まさに女性性を持つ日下が周囲の者を自分の悪へと同一化(これは性交と非常に近いものである)させることで自分が絶対的な状態となり、さらにその結果悪を増殖させていくという悪と一致するのだ。以上のようにして美しさ―偽性が、悪の周縁にあることを証明したといえるだろう。

 

 美しさ―偽性と女性性の関連は、日下から新一へのみ向けられる視線により担保されている。日下は、自分が操っている人物たちと言葉を交わす時、まるで相手を見下ろすように顎を挙げ、目を下に向けて話すことが多い。例えば、出世のために新一を裏切った小山内に対しては、例によって顎を挙げ、目を下に向け視線を交わさないし、視線の合わない態勢、つまり、向かい合わないときにも同じような話し方をしている。これは、母親の万紀子に対しても適応される。万紀子は、そもそも車いす生活を余儀なくされているため、いつも物理的に日下の下の位置にいるのだから、当然のようにも感じるが、新一が腰を下ろし、万紀子と視線の高さに合わせていることと合わせるとやはり意図して見下した視線をむけていることが分かる。

 以上のように、日下はほとんどの人物に対して見下す視線を向けるのに対し、新一にはまっすぐな視線を向ける。最終回における、二人の対峙のシーンでは、二人の身体に距離があるときには切り替えしで、身体が近いときは一つのバストショットやアップショットで、日下のまっすぐな視線をとらえられていた。このとき、見下した視線の瞼が多く覆っている細い目とは異なり、見開かれた大きな目となるため、(見下した表情との対比もあり)、その顔はとても美しく見える。つまり、美しい表情が新一にのみ向けられるのだ。それは、日下に新一の「位置」だけでなく、新一と同一化したいという欲望があるからであろう。それが可視化するのは、最終回の対峙シーンのクライマックスだろう。

 最終回、対峙シーンのクライマックスで日下は本人の言によると「じゃんけんみたいな」殺人ゲームに新一を巻き込む。それは、新一に以下の三つの条件のどれかを飲ませようとするものだった。

①新一が日下を殺せば、万紀子が助かる。

②万紀子が新一を刺せば、日下が助かる。

③日下が万紀子を刺せば、新一が助かる。

 このとき、新一は、①なら殺人者、②なら死に、③なら母親を見殺しにすることになり、いずれにせよ不利益をこうむることとなる。万紀子は一度新一を狙いながらも殺せなかった事実を合わせると現実性の低い②をのぞくと、①③はいずれも新一が、自分や他人を裏切り悪に染まるように仕組まれているのだ(そのために、新一は「お前の口車には乗らない」「俺はお前を殺さないし、母さんも俺を殺さない」「お前にも殺させない」と日下に言い放っている)。これは、かなりの確率で新一を自分の方に近づけることのできる策であり、同一化を促すためのものであることがわかる。もし、単に新一を貶めたり、新一の位置を手に入れたりするだけなら、新一に汚名を着せて、すぐに殺してしまえばいいだけなはずである。このような回りくどいやり方は、結局、万紀子の唯一の愛する息子という「位置」にいる新一になりたいだけではなく、新一自体を自分の方に引き付けて同一化したいという欲望をもっていることを示している[viii]。この後、万紀子を人質に選択を強いられた新一は、日下を押し倒す格好となるが、そのとき、この同一化の欲望が(これ自体性交に近いことは先述したが)性愛に近いことが判明する。

 万紀子を人質に日下に挑発された新一は、日下を押し倒し状況の打破にかかる。このとき、画面は走り出す新一のショットに続いて、日下が押し倒されたショットへとつながるが、このとき日下は一瞬笑みを浮かべ、その後厳しい表情に変化するのである。この表情の変化は、まるで性愛の苦痛と快楽が表裏一体であることを匂わせるものである。さらに、日下は友情を説く新一(ここで、性愛とかけ離れた友情を持ち出す新一は終始無知な人物であるが)に対し、その友情でさえも自分によって作り出された幻想であり、そこにいた君家や馬場も利用しただけの人物であることを知らせ、新一を挑発するのだが、その決定的な言葉は「(俺を)殺せよ」ではなく「刺せよ」なのである。「刺す」というのはもちろん性交に近い表現であり、このとき刺される側に立とうとするのだ。新一より下の位置にいることと併せてここでも日下の身体に女性性が浮上するのである。

 結局、新一との同一化は新一が日下を刺さなかったことで中断させられる。その際逆上し新一を「刺そう」とするのだが、これも万紀子に止められることで不調に終わる。このとき、日下は万紀子を刺すことになるが、最後まで男性である新一を刺せなかったことで浮上した女性性が保持されたともいえるだろう。美しさ―偽性と女性性の関連は、日下から新一へのみ向けられる視線と美しい表情とその影にある新一への欲望とつながることで担保されているのだ。日下は、男性でありながら、そのなかに女性性を保持するというそれ自体身体のなかに偽性を含んでいるといえるのだろう。ラスト、刺されたはずの日下の遺体は発見されず、それを主人公は「野良猫のようにどこかで死んでいるのでは」と予想したのみであったが、これは身体の身体性が否定されているといえる。人は死ぬとき身体の身体性が浮上するのだが、それは遺体があるからである。遺体の物質性が身体の身体性を高めるのだ。しかし、日下の遺体が発見されないことによって最後まで身体の偽性が保持されているといえるのだろう。

 

[i]  日下は、母親を「こいつ」と呼称し、馬場と君家(演:桜井日奈子)の死を新一に伝えるとき、女性である君家の方のみ「ぐちゃぐちゃ」になってと形容するなど、主に言葉によってミソジニーであることが示唆される。

[ii]  中村雄二郎(2012)『悪の哲学』.P43-44.

[iii]  中村雄二郎(2012)前掲書.P44.

[iv]  この手は、最終回で見られたナイフを握る彼の母親(演:黒木瞳)の手に似ている!

[v]  この点について、フィルム・ノワール期の美しく、主人公を裏切る女たちの系譜(毒婦の系譜、ハニートラップの系譜)と明確な関連が見られるだろう。その系譜には、例えば、『上海から来た女』(1947年、オーソン・ウェルズ監督)のエルザ(演:リタ・ヘイワース)などが挙げられる。

[vi]  カフカ,フランツ(1996)『夢・アフォリズム・詩』.P196.

[vii]  カフカ,フランツ(1996)前掲書.P196.

[viii]  この類例としては、『ソロモンの偽証』(2015年、成島出監督)が挙げられるかもしれない。

【祝百万人到達】カジサックさん波は「YouTuber」をアプデした!!

 

 

カジサックさんが先日、百万人を突破しました。あらためて、カジサックさん、チームカジサックの皆様、そしてリスナーの皆様おめでとうございます。以前、このブログで書いたように、カジサックさんはYouTuberという存在について思考していたようにおもいます。

 

日本のなかでYouTuberに関しては、正直、親しみやYouTubeがそれまで慣れ親しんだ「成り上がり物語」=「知名度獲得への道」に対し、リスナー側のこだわりのようなものがあったようにおもいます。

そこで求められるのは「センスのある素人」であったのではないでしょうか。それは、いい意味では、エンタメの担い手のそのものの個性への敬意や「親しみ」への愛着だとおもいますが、一方で「どこでもだれでも」が売りのYouTubeにあって、エンタメの玄人が 排除されがちな矛盾した状況を産み出していたのかもしれません。そして、知らず知らずに「YouTuber」というものをぼんやり定義し、凝り固まった「伝統」にしてしまうところでした。エンタメをみるときに新しいものを拒否することだけではいけないとあらためて、自戒をこめておもいました。

 

 

もともと知名度があり、芸人としても知られているカジサックさんの挑戦と第一章となるであろう登録者数100万人の達成は、おそらく多くのリスナーたちに「YouTuber」という定義の更新=アップデートを成功させたのだとおもいます。芸人さんだけでなく、さまざまな有名人の方が、このような芸能人アレルギーのないYouTubeにおいてまたあたらしいひとつの波をつくりつつあります。また少し違ったかたちの「YouTube」というエンタメの目撃者になれるのではとワクワクしている方も多いとおもいます。その震源地、つまり波動の中心はカジサックさんだとおもいます。


カジサックチャンネルで、まだまだ見てみたいものがたくさんあります。100万までとはまたちがうなにかを。なるべく6時に、動画をみるべくスマホのまえで待ちたいとおもいます。新しく発表される夢のそのさきにみえてくるものの目撃者になるために…です。



パラレルワールドを共に生きること『俺、つしま』【※ネタバレ注意※】

 猫は人間に「近い」けれども、それに反して異なっている。彼らは、人間に飼いならされているというよりも「近く」にいることを主体的に選択した少し変わった動物だ。

 

 さて、その猫の不思議さについて精巧に表現をおこなったのが、『俺、つしま』だ。Twitter漫画としてネットに投稿された本作は、2018年には小学館より文庫本として発売され、2019年6月現在までには『俺、つしま2』も発売されている。今回はこの作品について、簡潔ながら考えていきたい。

 

 

 さて、その猫の不思議さについて精巧に表現をおこなったのが、『俺、つしま』だ。Twitter漫画としてネットに投稿された本作は、2018年には小学館より文庫本として発売され、2019年6月現在までには『俺、つしま2』も発売されている。

 

twitter.com

 

 

 

 

 本作は、とにかく「つしま」ら猫たちの写真のように見えるくらいの繊細な顔の描写や、猫の些細な日常を語る「実際的」エッセイ性に定評がある。一応、猫を飼っているブログ主からみても表情やエピソードが手に取るように想像でき、おもわず、わが愛猫に重ねてしまいそうになった。また、「つしま」たちはもともと保護猫であり、一匹オオカミの側面があることが余計に「猫らしい本質」をもった描写が引き出されたようにもみえる。この漫画に出てくる猫はみな「ツンデレ」であり、いわゆる「イメージ」としての猫を思わせる。そのため、おそらくあまり猫になじみがなかった方にも読みやすい構成になっているだろう。

 

 

無表情の表情

 「つしま」顔はかなりのインパクトを持っている。「ふてぶてしい」というか「威圧感」があるというか。猫のオスは顔が大きいほうがモテるらしいので、彼本人がたびたび発言するように色男なのかもしれない。多くのコマで登場する「つしま」は、真顔で無表情、その発言もわりとニヒルだ。

 

 ・「おじいちゃんだっていついなくなっちゃうかわからないだろう」

 ・「疲れてても一応相手をしてやった。まったくニンゲンには手がかかるよ」

 ・「俺、つしま。天涯孤独の旅ガラスだ。(猫だけど)」

 

 

 むかし、かわいがってくれていた(川端康成のような風貌の)おじいさんが亡くなって取り残されたこともあり、人間に対しふくざつな心境を持つということが、このようなニヒルな発言と「威圧」間のある無表情に影響しているのかもしれない。あるいは、猫が表情筋をあまり持たないので必然的に「真顔」が多いからともいえるだろう。しかし、この「真顔」が逆説的に「同じ」ではなく「近い」ところにいる猫の表情を引き出してくれる。

 

 ひとつは、真顔と対照的なわらったような寝顔の「かわいらしさ」が引き出されること。猫は気持ちのいいときや寝ているとき目をつむるが、これがほっぺたが上がってわらっているように見える。真顔でニヒルなことを言っても、現在の彼の同居人のおじいさん(本当は女性)に対する「愛着」は隠せない。おじいさんの「隣」で寝ることはつしまの日常だ。普段「無表情」だからこそ、寝顔にその隠せない「愛着」や「至福」、「充足」が強調され、ネコ独特の矛盾した「ツンデレ」の表情が見えてくる。その表情を導き出すのが確実に「同じ」ではなく、「近い」という距離感なのだろう。

 

 

一体化したい私たち、近くにいたい猫たちの欲望

 この漫画の一番の特徴は、視点がネコにあることだ。筆者であるヒト側ではない。ここには、潜在的に“一緒に同じように生きたい”、“理解したいという”人間の潜在的な欲望が反射されている。しかし、この作品では「同じ」/「近い」という少しちがった欲望を悲劇にしない。ちかいけど、ちがってしまうことをまるで「アンジャッシュ」のすれ違いコントのようにズレを喜劇にしてしまう。飼い主たる人間の勘違い(掃除機をつしまと勘違いする、ネコたちが嫉妬していると思うなど)は、かわいらしく滑稽だし、ねこの天然さ(良かれと思っておじいさんが好きだと思う、すぐに考え方を変えるなど)もリアルでいとおしく見える。

 

 この漫画は、人間とねこがちゃんと違った動物として愛をもって描写されている。そこですれちがうちょっと切ない両者の認識の違いは、実はお互いの勘違いによって滑稽で絶妙に「ちょうどいいもの」として成立することの側面を見せてくれる。擬人化ではなく、猫がネコとして独白している唯一の作品かもしれない。

 

 

 

俺、つしま

俺、つしま

 

 

 

【参考にしてね!】猫飼っている主が読んでいてガチで参考にしてる本の紹介【♂、9か月】

 書きたい記事が途中から「…??」状態になり、最近更新でいてなかった主でございます。今日は気分転換に、猫のまるくん(♂、9か月)と日々生活し、彼のことを知りたくて本を買いまくっている主の本気で参考にしている本を厳選して三冊ほど紹介したいと思います!!!(ちなみにまるくんはやんちゃな甘えん坊。賢くてちょっと意地悪な最高の猫です。マンチカンの並足でシルバータビー。)

 猫とはいえ、もちろんかなり個体差もありますし、飼い主さんの考え方も千差万別なので、「参考」になればなぁというくらい軽い気持ちで見てください!あっ、でも本気で紹介しますよん。

 

 

『はじめてでも安心!幸せに暮らす猫の飼い方』

  • 山本宗伸監修
  • 2017年
  • ナツメ社

 

 猫を飼う前に、買って読んでいた本。猫を飼いたいけど、何が必要かもわからないというときに猫に関するイロハを教えてくれる入門書的存在。猫を飼ってからも、細かい知識や対策法を提示してくれるため、特に飼い始めの一か月に大活躍だった。

 比較的新しい刊行で、装丁が見やすいため単に猫について知りたい!という欲求にもこたえてくれる一冊だ。すこしだが猫の品種辞典もついていて絵や写真もかわいい。本の大きさ、厚さもちょうどいいので持ち歩きにも最適。

 

はじめてでも安心!幸せに暮らす猫の飼い方

はじめてでも安心!幸せに暮らす猫の飼い方

 

 

 

『猫の寿命は8割が”ごはん”で決まる!』

 

 猫ちゃん用のフードはかなり種類が多く(ドライorウェット、総合栄養食or一般食orおやつ…)、なにをどう食べさせればいいかは慎重な検討が必要だ。その判断材料を与えてくれるのがこの本。去勢後に買い、カロリー計算や与える回数の工夫などで、うちの猫は肥満という万病のもとを回避できている。獣医師さんが書いているので、安心でき、かゆいところに手がとどく知識が多くなっている。

 

猫の寿命は8割が“ごはん

猫の寿命は8割が“ごはん"で決まる!

 

 

 

『【お得技シリーズ138】ネコお得技ベストセレクション』

 

 晋遊舎はあのLDKでおなじみの出版社で、この本はその「おいしい」ところを紹介してくれている。LDKシリーズもすべてもっているのだが、”せっかく買うならネコちゃんに好かれやすいグッズを買いたい”、”ネコちゃんともっと仲良くなるためのコツを知りたい”という欲求にこたえてくれるシリーズ。猫グッズを買うときはいつも参考にしている(特に大きな買い物のときは)。

 

 

 

 

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 以上が今日の紹介です!主は、まるくんを飼うまでは、動物と生活した経験がほとんどなく、わからないことだらけでしたが、これらの本によってかなり助けられています、、、。それでもわからないことがあったら獣医師さんに頼るのが一番ですけども!

 ・・・!もちろん、まるくんにも助けられてるよ!

 

【お知らせ】ブログの改題について

  みなさま、いつもよんでいただきありがとうございます。主こと、チョピまるです。

 

  気づいた方もいるかも知れませんが、ブログが改題されました!

 

  もともとの題名は、題名きめるのに悩みすぎた結果なんともビミョーなものになってしまっていたという事情がありました😶

 

  飽き性の主がせっかく続けているのだしとおもいあらためて、真剣に考えた題名がこちらです!!

 

 

「猫にもなれば虎にもなる。」

 

 

  猫をいれたくて、ことわざをしらべまくり、ブログを書くスタンスにもあっているであろうこの言葉にしました。

  これからも、ときにねこちゃんのように柔らかく、ときに虎くんのように力強くさまざまな分析を書いていきたいと思いますので、読んでいただければ幸いです☺️

 

  ちなみに、、アクセス数とか普段は気にしなすぎて見ないのですが…「!?」というくらいみていただいています。ありがたいです😭

 

  今後ともよろしくお願いいたします。

【相棒9】「ボーダーライン」はなぜ“カルト的人気”を放つか~悪の中心なき「散在」的実存論

 刑事ドラマファンにとって、昭和は輝いていたといえるかもしれない。『太陽にほえろ!』を筆頭に『大都会』シリーズや『特捜最前線』『刑事くん』など個性的な刑事ドラマが多く制作されたからである。では、平成を代表する刑事ドラマといえば、『相棒』だろう。

 『相棒』は水谷豊・寺脇康文の主演で2000年始まり、ドラマ不遇期にあって高視聴率を記録。第7シーズン途中でで寺脇が降板したのちは、杉下右京=水谷の相棒役として、及川光博(神戸尊;S7~S10)、成宮寛貴(甲斐亨;S11~S13)、反町隆史(冠城亘;S14~)がキャスティングされ、平成までにプレシリーズを除き、第17シーズンが、映画はスピンオフを含めると6作品が制作されている。

 

 その『相棒』シリーズのなかでも特に語られる作品がある。第9シーズン8話の「ボーダーライン」だ公式サイトにのっているあらすじは以下の通りだ。

 

崖下から柴田(山本浩司)という男の転落死体が発見された。刃物による傷があることから、何者かに追い詰められて転落した可能性もある。柴田は金もなく、期限切れ間近の保険証と大中小3つの鍵を持っていただけ。

柴田の奇妙な胃の内容物から事件に興味を抱いた右京(水谷豊)は、尊(及川光博)と捜査を開始。今年1月、寮付きの仕事が決まったからとアパートを出た柴田。死ぬまでの11カ月が空白であることがわかる。

大きめの鍵がレンタルコンテナのものであることが判明。柴田はコンテナを借りていたが、中で寝泊まりしていたため、契約を解除されていた。寮付きの仕事が決まっていたはずなのになぜ?やがて小さい鍵が私書箱のものであることが判明。新たな事実が浮かびあがる。

鍵とともに埋められていく空白の11カ月に隠された衝撃の真相とは…!?

――相棒9公式サイトより(テレビ朝日|相棒season9

 

 現在でも多くのサイトで言及されている。たとえば、ニコニコ大百科にもその単独の項があるほどだ。

 

dic.nicovideo.jp

 

 最強(最恐?)の「鬱回」としてかなり有名な本作だが、なぜこれだけエピソードがあるなかでこの回がカルト的な人気を誇るのだろうか。それについて話していきたい。

 

【以下、ネタバレ注意です】

 

 

 

 

 

『相棒』における「ボーダーライン」の位置と同時代的「貧困」感覚

  

 さて、さきほども述べたように、この回が放映されたのは、『相棒』において重要な役、つまり水谷豊演じる杉下右京の相棒=寺脇康文が交代した後だった。寺脇康文が演じた亀山は、頭脳明晰の操作マシーンの右京の逆をいくような肉体派で、右京の気が付かないようなものに気が付く感覚派の刑事だ。一方、前シリーズから相棒となった及川光博演じる神戸尊は、警察庁から杉下の「行き過ぎる正義」(要は、組織にとって耳の痛いことまで暴いてしまうこと)を監視するために送り込まれた「S」(スパイ)として特命係に任命されたという背景をもっており、杉下と同じような「エリート」である。

 このような交代は、「知性×感覚」というわかりやすい主役二人の補完関係から「知性×知性」という対立関係へと変化させ、作風へも影響した。亀山のころにあった映像的ミステリーをおもわせるものから、「社会派」へと変化する。「誰がやったのか」(フーダニット)から「なぜやったのか」(ホワイダニット)への重点の変化ともいえようか。

 

 このような背景のなかで、神戸期を代表するようなエピソードが「ボーダーライン」だろう。それは、当時の社会背景をかなり反映し、放映当初はおそらく「身につまされる」という感想をもつのも不思議ではなく、それが「鬱回」への階段をかけぼらせたのは事実だろう。その社会背景に言及する。

 

 作品データ

 演出:橋本一

 脚本:桜井武晴

 放送年月日:2010年12月15日

 ゲスト:山本浩司

 補足:貧困ジャーナリズム大賞2011受賞作。

 

 背景データ

 2008年:リーマンショックによる不景気

   →派遣社員をリストラする通称「派遣切り」が社会問題化。

   →秋葉原通り魔事件発生。犯人の男が派遣社員であったことが大きく報じられる。

 2009年:「ブラック企業」に関する映画の公開=『ブラック企業に勤めているんだが、もう俺は限界かもしれない』

 

 以上のように、経済状況の悪さによる「働き生きていく」ことへの苦しさが、かなり社会問題になっていたように思う。当時は就職することも今以上に大変だったと記憶する。そのため、「ボーダーライン」の被害者=柴田をめぐる状況は、家族との疎遠、派遣切り、婚約者との別離、生活保護からのもれ、名義貸し、資格の無意味、ホームレスなどと信じられないほどの不幸と転落の連続だが、それはかなり「リアル」になっている。つまり、彼の不幸は多くの「視聴者」とかなり「近い」ものだったといえるだろう。しかし、この作品の衝撃は作品上の文脈や社会学的アプローチだけでは足りない「リアル」をもって「陰鬱さ」を強調する。

 

 

 「犯人が悪いのか」/「社会がわるいのか」という無意味な問い

 柴田は結局自殺した。それはどうやら「自分を殺したのが社会そのものである」ということの告発のようだ。たしかに、柴田が絶望せざるを得ない状況をつくりだしたのは、「社会」のように思う。ここだけみれば、社会がもつ悪への責任の問題が見え隠れする。

 

 しかし、柴田は悪くないだろうか。右京は言う。

 

 「周りの人間も、そして、彼自身も手を差し出す勇気が必要だったのかもしれません。」

 

 柴田はたしかに、決定的なものがないながらも少しずつ追い込まれた。しかし、そこでなにか少し変えていれば、プライドを捨てていれば、結果は違っていたのかもしれない。彼の兄や婚約者は、柴田自身への非難の言葉を述べていた。「どこにいってもダメなのには貴史(=柴田)にも原因がある」、「いいかげんに働いているからだ」…。周囲の人間がそう感じる何かを彼は持っていた。まわりが常軌を逸するほど薄情ではなかったという状況をみればそれはわかることだろう。

 

 つまり、「社会」にも「彼」にも原因はあった。自殺への因子は、ひとつからではなく、複数に「散在」していたのだ。そのため、犯人、あるいは「悪」を具体的な対象に求めていた視聴者は肩透かしを食らう。柴田を追い詰めたのは、「誰か」ではない。ここまでの議論は最近の事件に対する相反する問いのある種の不能を思い知る。「社会が悪いのか」、「犯人が悪いのか」。答えは、我々が安心できるほど単純ではない。両方、単独ではその悪という現象の因子にはなれないし、両方とも因子であるということだ。はっきりとした輪郭をもたない悪の因子はわれわれに「判然としない」という感情とともに、一般的に作品のなかで戯画化されたものではないため、「リアル」であり、柴田を追い詰めたひとの罪責も追い詰められた柴田自身の罪責も、我々との明確な違い=境界(ボーダー)をもたないために余計に「陰鬱」だと感じるのかもしれない。

 このような問いとそれが無意味となってしまうことの反転や「恐怖」は、柴田のおぞましい自殺方法へと偶然にもリンクしてしまう。再起をかけて得た「医療事務」の資格。当時、就職難のなかでかなりもてはやされていたように記憶するこの資格は、彼が未経験者であることを理由に正規の効果を発揮できなかった。それは、彼を「生かす」ものとしてではなく、反対に「殺す」ものとして反転した効果をもたらすのだ。他殺を偽装するための知識になるのだから。刃物で自ら防御創を刻み込む痛々しさは彼が生きようとしたかつての知識からもたらされてしまったものだ。よかれとおもったことがすべてうまくはいかないように…。

 

 

 

だれかはだれかの脅威となってしまう;悪の「散在」的実存論

 さて、さきほど悪の因子は、「社会」だけ「個人」だけにも求められず、逆に両方とも含んでいるとした。ではより社会に目を向けよう。本作に登場する人物たちはその濃淡こそあれ、柴田を追い詰めた罪責をもっていた。特に、雇い止めをした会社の人間、名義貸しをさせたものたち、生活保護の相談にきちんと乗らなかった福祉事務所の職員はその罪責は大きいように見える。これらの人物だけなら、あきらかに柴田という存在は画面の向こうのフィクションになっていただろう。しかしながら、彼の自殺のトリガーを引いたのは誰だったか。

 

 そう、登場人物のなかで最も「悪意」や罪責の薄い人物に思われるパン屋のおばさんのちょっとした嫌味だ。柴田は住所をなくし、ホームレス状態の中で食べ物を探し、さまざまなスーパーへと足を運んでは試食でその場の飢えをしのいでいた。パン屋にドーナッツを三回試食しに行った柴田をおぼえていたおばちゃんは、「もしよかったら今度は買って行ってください」と。それは、買わないで食べるという法令に違反しない範囲での「ライフライン」だったのだろう。しかし、迷惑行為であることには間違いがないし、おばちゃんはそれをかなり柔らかく指摘しただけだ。しかし、十分追い詰められていた柴田にとっては、ほかのより直接的な「悪意」よりも、響いてしまったのだ。

 「あんたには価値がない」、「お前の名前にはもう価値がない」、「65歳以下だから生活保護は受けられない」という非日常的な強い言葉ではなく、何気ない嫌味が柴田に自殺のもっとも直接的なきっかけとなった。これは鳥肌の立つような構成だ。一番、普遍的な言葉が重大な意味をもってしまうのも「反転の恐怖」だろう。おばちゃんは、柴田の背景など知る由もない。だから、見ている我々と大した変わりがない。柴田の「リアル」は彼自身と我々を重ね合わせられることの「いたたまれなさ」を発生させたが、おばちゃんの「リアル」はわれわれの「罪責」をも意識させる。柴田の元婚約者の言葉は、はじめ薄情なものとして響いたが、このシーン以降は視聴者も言うかもしれないと思わせる。「そんなに悪いことしましたか?」。

 

 以上のような「だれかはだれかの脅威となってしまう」という構成は、『恐怖分子』(1986年、中国、エドワード・ヤン監督)という作品を連想させる。関係のないものが、悪の因子となって脅威をふるうというのは、「普通に生活する」ことが時に他人から「否定的な意味をもつ」ことがあるという不都合な真実をあらわしているのだろう。

これにはおそらく、悪が「現象」としてしかたち現れず、その原因は小さな因子として「その辺にあるもの」のなかに顕在化することなく静かに散らばって存在しているという悪の「散在的」実存のすがたに関連している。善意の人のみでも時に悪は「現象」となり立ち現れる。おそらくそれを我々は感じているから、ときに悪を空白に例え、凡庸だというのだろう。「ボーダーライン」は、そのような悪に関する「リアリズム」を再構成し視覚化させた作品だ。そこには、視聴者の「悪が特別なものとして排除されてほしい」という欲望に基づいた戯画化など存在しない。見たくないものをみせたからこそ、この作品はカルト的人気を博すのだろう。45分間の映像体験がこれほど衝撃をもたらせたのは、無駄がない計算されつくした構成のなせる業であり、悪という時空間をこえた普遍的なものの顕在化は今後も多くの人に思考させていくのだろう。

 

 

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【TBSドラマ】言葉を持つもの/持たざるもの【『金八先生』第7シリーズ】

 

 もうあきらめかけていたあの「半沢直樹」が来年放映されるらしい。顔のアップが多い画角に、過剰なまでの感情を露出させる演技、太陽ののぼるショットや土下座に対する間の過多。それが「倍返しだ!」という決め台詞とともにバランスよく「ドラマ以上」「コント未満」の名作を生み出した伝説のドラマが見られるのだ。

 TBSは、この「半沢直樹」という怪物的な存在の後追いとして「ルーズヴェルトゲーム」(2014)、「下町ロケット」(2015、2018)、「小さな巨人」(2017)、「陸王」(2018)、「ブラックペアン」(2018)などの主に半沢とおなじ池井戸潤原作の力作を生み出してきた。視聴者も、「半沢直樹」からの演出、配役、設定等から流れやつながり、共通点を感じた方も多いと思う。現在放映中の「集団左遷」も半沢と同じ「銀行もの」で、半沢の大和田専務役でおなじみの香川照之が出演している。

 

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 「半沢直樹」以降のTBSの作品群の序章となった作品のひとつが、平成以降の『金八先生』にあったのではないかと筆者は思う。それは、演出に福沢克雄がかかわっているからということが要因としてあげられるだろう。特に、その「過剰」「過多」による視聴者の「情動」に理屈なしで直接訴えかける演出の先駆けが、とくに同作の第7シリーズにあるのではないだろうか。

 

  第7シリーズは、その組成からして少し変わっていた。脚本は『金八先生』の産みの親、小山内美江子が病気で降板したことで清水有生に変更された。そのために、内容に多少の変更があったことが遡及的にあきらかとなっている。しかし、そのなかで一貫していたことがある。それが第7シリーズが一貫して「過多」「過剰」による「情動」への呼びかけが、主となった2人の生徒ー狩野伸太郎=濱田岳、丸山しゅう=八乙女光ーのその過剰な対称性が関係しているようにおもう。

 

【以下、ネタバレ注意】

 

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「床をなめる」行為の持つ意味

  「薬物」をテーマにした第7シリーズのハイライトは、親の影響で自らも薬物にはまった丸山しゅう=八乙女光(彼はこのころとくに幼い少年の雰囲気があった)が教室で、金八にその中毒を暴かれたのち、その薬物の作用によって水を求め、こぼれた水まで飲もうとし、床をなめるという演出だろう。

  しゅう=八乙女の鬼気迫る演技と、それを受け止める金八=武田鉄矢やまわりの生徒の演技を越えた嗚咽のドキュメンタリー性があまりに「露骨」であり、賛否両論を巻き起こしたシーンである。確かに「痛々しい」(賛)/「やりすぎ」(否)ともいえるシーンだ。

  このシーンはおそらく、その直前のシーンまで、あるいは以前の回を見ているか、その文脈でみるかどうかでかなり印象がかわる。このシーンだけみると確かに「過剰」だ。八乙女の少年性も相まってかなり暴力的にもみえる。しかしながら、それまでの「言葉をもたないもの」としての八乙女をみれば、それは「情動」に直接うったえかける「身体表現」にみえる。どういうことか。

 

 

言葉をもつもの/言葉をもたないもの

  第7シリーズの生徒は第5シリーズの兼末健次郎(風間俊介)や、第6シリーズの鶴本直(上戸彩)のような1人の中心ではなく、先述のとおり濱田と八乙女の2人が対称性を、もって中心となっていたことは間違いない。

 

  狩野伸太郎=濱田岳は、ボンボンのワルガキで、クラスの中心におり、ムードメーカー。俳優濱田岳の実力も相まって、かなり台詞も多い。そうかれは「言葉をもつもの」だ。そのため、金八と言葉でやり合うのも、彼だ。しゅう=八乙女が逮捕され、かれを救えなかった老いをおびた金八に浴びせた伸太郎の言葉は、濱田岳武田鉄矢の胸ぐらをつかむモーションとともに、クラスや視聴者の気持ちを「言語化」した。

 

  なぁ、なんで何も言わねぇんだよ!
あんた、誰?
 俺の目の前に立ってるあんた誰かって聞いてるんだよ。
 あんた金八先生じゃねぇのかよ!

ー最終回「25年目の贈る言葉」より

  

  もともと、金八は国語の教員であり、その「言葉」で多くの生徒を導いてきた。その「言葉」はしゅうを救うことができなかった。それは、金八のアイデンティティに関わる問題であり、辞職を決意するのも無理はない。それを、「言葉」で引き戻したのが、この台詞。この「言葉をもつ」のが伸太郎=濱田岳である。

  かの「床なめ」シーンでも、茫然自失として嗚咽したのではなく、俳優として泣いていた唯一の生徒であり、「なんでドラッグなんてやったんだよ!」というストレートな怒りややりきれなさを「言語化」し、このドキュメンタリー性にドラマのシーンの側面を与えた人物である。

 

  一方、丸山しゅう=八乙女光は、「言葉をもたない」ものだ。かれはその出番と本作の役割に対して台詞は少なく。とくに、自らの過酷な境遇や心境をかたることはない。そのために多くなるのが、「身体表現」だ。

 

 

「身体表現」と痛み

    しゅうは継母から暴力をうけ、実父が薬物を盗んでしまった組織の人間からも暴力を振るわれる。彼のアクションは、自らの明確な意思とは離れた受動的なものだ。

 シリーズ序盤でその暴力の受け身となっていたように、しゅう=八乙女の「身体表現」はそのアクションやアザの形状とともに痛みと切り離せない。だから、金八の元生徒が営む青果店で、リンゴを盗み走り去るアクションもそのリンゴの赤さがアザに似るのも、痛みを換気する。「言語化」不可能な痛みは、身体への痛みの感覚とともに「身体表現」として表出するのだ。これが直接「情動」にうったえかける「身体表現」といえるだろう。

 

  そのために、アクションによる活躍=よさこいもポジティブな表現ながら、どこか痛みを残し、そのうち薬物をうつという腕に針を刺す受傷行為、そして件の「床なめ」へと続く。金八やクラスメートらの言葉を受けながら、それを返すことができなかったしゅう=八乙女は、その見た目に残る「幼さ」と一致してしまうように、「身体表現」しかできない「赤ん坊」のような儚さを含んだ。それは「幼さ」とかえって不似合いな「薬物」によって、同空間に存在しないかのように床をなめることを、やめない(やめられない)ショッキングな痛みへ昇華されてしまうのだ。

 

  だから、かれの本当の意思や気持ちを「言語化」できない「情動」で感じてきた視聴者は、この「床なめ」シーンも「情動」で受け止めるのではないだろうか。

 

 

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  「やりすぎ」が「やりすぎ」に見えなくなるようなこの連続ドラマがうむ、連続性のマジックを作り出すのが、金八第7シリーズから脈々と続くTBSドラマにおける演出の妙に思う。いまから、「半沢直樹」が楽しみでならない。