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『清作の妻』における権力の抵抗分子、若尾文子

 本日は、大学二年生のころに書いたレポート原稿からです。すごーく、堅苦しく穴もあると思いますが、いまでも一生懸命に書いた記憶とともにお気に入りの原稿です。暖かい気持ちで見ていただけたら…。

 

【※ネタバレ注意※】

 

 

 

 

フーコーの『監獄の誕生』

フーコーは、『監獄の誕生』*1の最後に次のように述べている。

 この[監禁都市の]中心部の、しかも中心部に集められた人々こそは複合的な権力諸関係の結果および道具であり、多様な<監禁>装置によって強制服従せしめられた身体ならびに力であり、こうした戦略それじたいに構成要素たる言語表現にとっての客体なのであって、こうした人々のなかに闘いのとどろきを聞かねばならない。(P.308)

 『清作の妻』はまさにこの記述の世界観が現れた映画である。フーコーの言う「人間の多様性の秩序化を確保する技術」(p.218)である「規則・訓練」により、「従順さ」を持ちその権力の道具・一部と化した人間としての村人等が、人々の趨勢に黙ってついていかない「強情」で(実母・義母によって指摘される)「従順な身体」をもたないお兼(若尾文子)を権力の抵抗分子として監視する。そして、お兼は、画面上でも視線の監獄に入れられる。そこから自主的に出ることを許されない。また、お兼は、監獄のなかでも一人顔のわかる存在として孤立する。そこでお兼は、その監獄の中に自分の夫(田村高廣)を身体的・精神的に引き込むのだ。以下、具体的にシーンを見ていく。

 

視線の監獄の中のお兼(若尾文子

 映画の前半・中盤(夫の目を突くまで)においては、お兼が様々な面で監獄の中にいることが強調される。物語的だけではなくシーン的な側面でもそれが分かる。それは、彼女が移動するところに顕著に表れる。具体的には彼女が自主的にカメラのフレームから逃れることがほとんどできないことや、フレームから外れても映画内の人物に見られていることが強調されていることにあらわれているのだ。そのようなシーンは、多いのだが、印象的なシーンを二つ挙げる。

 まず、一つはお兼がご隠居の家から抜け出し、実家へと向かうシーンを見ていく。お兼は工員たちをかき分けてくる様子をカメラは正面からとらえている。この時、工員たちが特に覗き込んだりするようなしぐさはしないが、意図的に視線を避けるようにして下を向き、背中を向けるなどする(しかし、この間もカメラには彼女の顔がとらえられている)。そして、カメラに彼女が近づき、自分でフレームアウトしようとするとカットが切り替わる。場所は飛んでいるようだが細い道へと入っていく。その様子をカメラは先ほどとは逆に、背後から彼女をとらえている。ここでも彼女は下を向いて歩いている。途中に、集まっている女たちの視線を浴びる。そして、また彼女が家の中に入ってカメラの視線から逃れようとすると、カメラは先回りして中から彼女をとらえる。ここからは、彼女が視線を疎ましがるしぐさをし、映画内人物・カメラからも消えようとするが、カメラは彼女を主体的にフレームから消滅するのを阻止していくような動きをする。この時カメラは、権力側の監視装置となって、観客は監視者の一員(権力の「道具」)となる。

 また、彼女の夫(田村高廣)が出征した後、彼女が夫の実家を訪れるシーンをみていく。彼女が、夫の母親に義妹の在住を訪ねてお礼を言うと、カメラは彼女の顔から下に移動する。その際、彼女はフレームアウトするが、義母の彼女を見る顔がとらえられる。このシーンでは観客の視界から主体的に消えたと思いきや、やはり映画内人物の視線からは逃れられていないのだ。

 以上のように、彼女は、彼女の強情さ(母親と義母にそれぞれ強情であることを指摘されている)権力への抵抗分子の為に、その姿がとらえられるとき、常に、権力の一つの「道具」である映画内人物やスクリーンの前にいる観客に監視されるのである。この状態をここでは、視線の監獄に入れられた状態とする。彼女は、その中で「孤独」だ。いとこの兵助(小沢昭一)は、どうやら知的障害を持っているようで、「規律・訓練」からはそもそも離れた人物で、抵抗分子となりえない。まわりの人間は完全な権力の「道具」である。模範的青年が、家族や村人の反対を押し切ってお兼と内縁関係となったことで、一時的に抵抗分子となり「孤独」から脱することができる。しかしながら、戦争によって彼は出征を拒まず、決死隊に志願するという模範的な権力の「道具」となる。そして、ついに彼女は、模範的な権力の道具である夫を自分と同じような「非行」的で監獄の中にいる人間にしようとするのである。

 

 視線の監獄への抵抗―夫を身体的に監獄へ引き込む―

 ここまでは視線に対応できないお兼(若尾文子)を見てきた。しかし、彼女が権力に抵抗し、彼女の夫からその視線を奪って彼を自らと同じように視線の監獄に引きずりこむとき、彼女は移動しながらも一瞬誰の視線も受けない瞬間が訪れる。それは、彼女の夫が出征する直前に起こる。庭で偶然釘を手にした彼女は、誰もいない宴会場に戻っていくところから始まるシーンである。

 釘を持った彼女は、空となった宴会場へと戻る。この時、カメラは固定され正面から向かってくる彼女をとらえる。そして、彼女は、柱に手をかけると、そのまますっと障子の影に消え、主体的にフレームアウトする。同時に、フレームの右下から奥の扉に向かって村人が一人通り過ぎるが、彼女の方をちらりと見て彼女とほぼ同時にフレームアウトする。このとき、カットはすぐに切り替わらず、空白となった空間が映る。ここでは、彼女が視線の監獄から抜け主体的にすり抜けたことになるが、これは夫の目を、視線を奪うという犯罪行為(反権力的行為)を行うことの予兆となる。そして、その後、夫の目を突いた後彼女は、血だらけでドアから倒れ出る(低めのアングルのカメラのフレームに血だらけで飛び込んでくるというショッキングな描写である)、村人たちがあっけにとられている間に走って逃走し(ここで再び移動が始まる)、視線の監獄やその権力から逃れて死のうとする。そのとき、カメラが家の外から彼女をとらえるとカメラの右側へと走りながらフレームアウトする。このフレームアウトは、彼女の死への意志(脱権力的行為への意志)を示しているようだ。その後、義母の号令で村人たちは彼女を追い始める。ここから、彼女は再び視線の監獄へと引き戻される。村人に追われて視線を浴び、同時次第にフレームから逃れようとすると障害が出現する、カットが変わる、転ぶなどして観客の視線も浴び再び彼女が主体的に視線から逃れることは不可能となる。そして村人は、視線をすりぬけ、権力から逃れた彼女を不必要と思えるほどの暴力で制圧する。カメラは様々な角度(前方、後方、上方)から彼女が暴力を受けるさまを冷静に映していく。「死なせてくれ」という彼女に村人たちは死を許さない、再び視線の監獄へ引き戻すのだ。軍人のような男はいわゆるマウントポジションをとり、何度も殴る。彼女の尻を「いい」と言っていた村人は彼女の足を押さえつける。彼女へのサディスティックな感情が爆発したようにして、集団リンチ、集団強姦のような光景が続く。また、この時画面が切り替わると目を潰された彼女の夫が同じように、血だらけの状態で何人もの村人に抑えられつけられている様が前方、上方、後方の順に同じようにとらえられるのは、二人が「双」の状態になっていることが示される。この後、彼が本当の意味で彼女と同じ立場になることを考えれば示唆的である。このようにして、彼女がその視線から意図的にのがれる“異常事態”は終わりをつげ、彼女は本物の監獄に入ることとなる。

 お兼が夫から目(視線)を奪ったことは、視線の監獄と無関係ではない。小川(1965)によると目を潰すという行為は、夫の名誉をたもったまま夫を戦争に生かせないための「計画的合理的な反戦脱出の行為」だったという。しかし、それだけでなく彼女は夫から視線を奪い、身体的に監獄の中へ引き込んだのだ。夫は、目を潰されたことで見ることをはく奪され、模範的な権力の道具という立場から引きずりおろされる(のちに、その象徴であった「鐘」が投げ捨てられ、転がり落ちていくことで表現される)。そして主体的に視線から逃れることが不可能となる。こうして、視線の監獄へ物質的に引き込まれた彼女の夫は、精神的にも彼女と一体化していくこととなる。

 

精神的な合一

 目・視線を奪われたお兼の夫は、身体的には彼女と同じように視線の監獄へと収監された。さらに、精神的にも彼女の立場と一致していく。

 村人からの「卑怯者」「非国民」のそしりをうけ迫害の対象となった彼は、お兼の家に移る。そこで、注目されるシーンがある。それは、夫による想像のシーンと考えられる。囲炉裏の煙とリンクして煙の中から現れた鎖はどこまで続いているか想像もつかないくらいの長さがある。カットが変わるとお兼は、カメラのフレームにおいて左側に配され、下を向きもぞもぞと動いており、右側奥にはうつむき顔の情報を消された囚人たちが煙のような、霧のような靄の中でうごめいている(戦時中の収容所を思わせるような恐ろしい描写である)。その向きから、そのうごめく多くのものたちの方へ進んでいるのかと思わされるが、次のカットになると彼女は、左側に正面に捕らえられ、先ほどのうごめいていたものたちは、後方にくすんでみえる。近づいていたように見えたが、違ったのだ。また、この時彼女は他のものと違って特権的に顔がとらえられる。その後、横に移動するシーンでは、移動しながら壁の前を歩く彼がとらえられる。ここでは頭が真っ暗につぶれ無個性化に成功しているようである。しかし、すぐに壁は消え、途端彼女の顔には、再び照明が当たり、顔が見えるようになっている。この時、先ほど彼女の後方に映っていたはずの他の囚人たちは、また後方に映っている。また、彼女の足が映ると鉄の枷が彼女の足を傷つけていることがわかる。このシーンは、彼女の現実の姿ではなくあくまでもイメージの世界だと考えられる。彼女と他の顔のないものたちとの距離感、位置関係は間違えを起しているのである。ここでは彼女が長い間、視線の監獄で足枷と鎖でつながれていたこと、個性を消そうとして失敗してきたこと、その抑圧の中で彼女自身が執拗に繰り返すように孤独であったという“事実”が、ドゥルーズのいう「結晶化イメージ」的に表現されたのだとも考えられる。ここでは視線を失った夫が、彼女がどんな視線の監獄と権力に抑圧されていたかを知ったともいえるだろう。こうして、精神的にも彼女を理解し、合一化することとなる。

さらに、二人が同じ立場におかれたことはこの後のシーンで見られる。お兼が夫のもとに戻ってきた(この過程の移動でも再び彼女のフレームアウトが禁止されている)後のシーンでは、さらに見ることに対し触ることが優位性を帯びる。彼女は夫に自分がどうされても仕方ないといい、夫は彼女の体に手を這わせながら、首を絞めるに至る。しかし、途中でそれをやめ、彼女の頬に触れながら「やせたな」という。ここで、ほとんどの観客は彼女の体系が見た目的にはほとんど変わっていないことに気がつくだろう。映画は視覚情報・聴覚情報は伝えられるが、触覚情報は伝えることができない(触覚に似た感覚を得られるメディアではあるが)。しかし、このシーンでは、見ることでは判別できないことが、触ることによって判明し、映画が決して観客に伝えられない触覚情報が視覚情報より優位性を持つのだ。これは、二人の観客に対する優位性を示唆され、観客との間にも距離が生まれる。こうして、夫は完全に彼女と一緒に監獄に入れられる人間となったのだ。そしてさらに夫はこの村から逃げることは負けることであるとし、二人はともに村に残ることにする。つまり、夫は視線の監獄から逃げることをやめ、(特にこの村)社会の中に潜む権力の抵抗分子となり、その権力とその道具である村人が作り出した視線の監獄と戦うことを決意するのである。

この後映画は、お兼が畑仕事をするシーンで終わるが、視覚的に静かなこのシーンは、ある種嵐の前の静けさのようにも見える。この村で、抵抗分子となった二人が、何か起こしそうな雰囲気さえ残してこの映画が終わったように見えた。

 

※参考文献

ミシェル・フーコー(1975)『監獄の誕生』(田村俶訳).新潮社.

小川徹(1965)「抵抗派お兼の計画と心情--「清作の妻」」.『映画評論』.新映画.

*1:ミシェル・フーコー(1975)『監獄の誕生』(田村俶訳).新潮社.