猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【思考ノート】エンタメとマイナスの「感情」関係、表現の「構築」【雑感】

 エンタメとマイナスの感情はおそらくとても微妙でセンシティブな関係性にある。と感じたのは、あるドラマをみたことにある。もともとドラマが好きなので、よくいろんな分野の作品をみるのだが、自分史上はじめて不愉快になって一話で視聴をやめてしまった。もちろん、作品との相性とか個人的嗜好の影響は大きい。しかしながら、この体験をきっかけにエンタメの中で「マイナスの感情」を扱うということは非常に難しいということを改めて自覚した。このことについて、今後の思考のために思考ノートを残しておきたい。

 

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マイナスの「感情」と緩和

 マイナスの感情=悲しみや怒りなどは、おそらくそれが乗り越えられるだろうと強く予想される場合、一種の障壁と認識され、視聴を妨げない可能性がある。予想が引き起こされるのは、配役(スター俳優の有無)、ヒーローや探偵役の有無、物語構成の形式などがかかわる。『アンパンマン』や『ウルトラマン』など多くの子供向けの作品や、『シャーロック・ホームズ』シリーズなど有名な探偵やミステリーものにみられる。短い時間の中で悪の発生とその解決がおこなわれるだろうという物語=時間の定型化(おきまりという認識)も関連すると思われる。

 

 あるいは、あまりにも非現実的な場合もマイナスの感情は物語の一種の装置として認識される。デフォルメされた悪役、悪そのものの形象の誇張などがあてはまる。『スターウォーズ』シリーズにおけるダースベイダー卿など。『バッドマン』シリーズ、『ダークナイト』におけるジョーカーのような悪が魅力的になってしまうという恐ろしい現象も起こってしまうこともある。『半沢直樹』の設定はリアルだったが、香川照之演じる大和田専務はデフォルメがあり、それが不快感を超えていたという例なのかもしれない。

 

 

マイナスの「感情」の強化

 一方、ホームコメディや労働物のような「日常」もののなかで、「ありそうな現象」、「ありそうな人」はリアルさが「いたたまれなくなる」ことがあるため、その関係性は非常に微妙になっていく。見ている側にいかにリアルでありながら「この物語はフィクションです」と思わせられるのか、非常に難しいバランスが必要となる。『ハケン占い師アタル』などはそのあたりのバランスの配分があったように思う。あるいは、相棒9の「ボーダーライン」とか。

 

 悪のためている時間が長いと冗長に思え、不快感が(ひとそれぞれ閾値はあれど)視聴中断につながってしまう可能性がある。ドラマでいうと一話完結形式はそのぎりぎりを攻めやすく、最終回まで使う話だと難易度は高くなる。逆に15分くらいの昼ドラ形式だと、不快感の載積が緩和される可能性もある。映画は、上映時間がさきにしられているので、その点は有利かもしれない。映画で、怒りを煽りぎりぎりみられるものに挑戦したのは『ファニー・ゲーム』だろう。

 

 

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以上、今後の思考へのノートでした。

「こんな視点があるよ」とか、「こんな例(作品)あるよ」などありましたら、ぜひ教えていただきたいです。

いつか、この原稿をブラッシュアップさせて精密なものにしていけたらなとおもった八月の終わりでした。

 

【最俺】魅力的でしかない不審者ゲーム実況者ことフジさん【バカかよっ】;後編

この記事は後編になります。前編は以下のリンクから見ることができます!!

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

 

 

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シュールとポップ、クラシックとロック

 さて、ゲーム実況者の個性は、Miiにでるのではないか、と考えるのが筆者の持論だ。
それは、その人のキャラクターを視覚化させるからだ。最俺でいえば、顔の枠を越えてしまっている破天荒な悪魔ヨーキー(キヨ)、顔が空虚な穴だらけだけどなんかかわいくもみえてくるサイコパスあな(ヒラ)、乙女すぎるのになぜか本人の顔が浮かぶこーすけ。そして、フジといえば…。普通のおじさんなのに、顔の作りが異様にリアルでシュールなのが特徴だ。紫で構成された髪型はファンキーな感じもしなくはない。口元は水木しげるのタッチに似て、かわいい感じがしなくもない。つまり、シュールさとポップさの混ざりとその同居のバランスのよさがフジなのだ。ボケとツッコミのバランスのよさと非常に似ている。(以下の動画のサムネイルでは四人のMiiがはっきりとわかる。左から、キヨ、こーすけ、ヒラ、フジである。


最速の男を決めよう『最俺マリオカート王決定戦!』【マリオカート8 デラックス】

 

 「こんな東京オリンピック笑うわ!」(キヨの最新動画)という動画のキャラ造形をみれば、よりはっきりするが、フジの作るキャラの多くは、「中年」なのだ。これもつかみどころがない。牛沢のようにはっきりとしたかわいい「じじい」というわけでもなく、かといって「若者」でもなく、キヨ・ヒラにように「怪物」でもない。しかし、この「つかみどころのない」シュールな「中年」がいることによって、ほかの「怪物」や「じじい」など個性の強すぎるキャラたちが余計に異常に見え、笑えるのは確かだ。一般論として、「中年」は若者と老人に挟まれる「中間管理職」の立場になることもおおい。どちらにも振り切らない・振り切ってはいけないという社会的要請は、はからずもフジに求められているものに似ているのかもしれない。これは考えすぎだろうか。


こんな東京オリンピック笑うわ!

 

 同じようなことは、彼の音楽事情にも関連するように思う。ゲーム実況などで使っているのは基本的にクラシックである。クラシックには造詣が深いようで、以前最俺のほかメンバーにクイズを出題していたこともあったくらいだ。


感受性豊かなら何でも答えることできるだろ選手権!!!

 

 音楽のせいか、下ネタだらけの実況のときも、なぜか品のよさがうまれてしまうような不思議な効果を生んでいる。しかしながら、ゲーム実況者ワクワクバンドでは、激しいロックをかなでており(ベース担当)、こちらでは下ネタなしでも、なぜかセクシーな「雰囲気」をだしている。しかし、このふたつの音楽事情のように、対立していそうな項目もフジにかかれば、ギャップというよりもバランスのよい同居となってしまう。だから、彼はこれといった定義では語れない「つかみどころのない軟体」なのだ。それが、おそらく彼を「雰囲気イケメン」と呼ばせるにいたっている。

 


俺って雰囲気イケメンなの?



 

雰囲気イケメンと魅力的な不審者

 「雰囲気イケメン」とは、ファンが彼を言い当てた本質的言葉だとおもう。フジはイケメンをジャッジする基準となるはずの顔をサングラスとマスクでほとんど隠している。しかし、「イケメン」だと感じるところがあるということなのだ。どういうことか。

 

 この謎に関係しているのは、人は隠れているものを暴きたくなる、「空白」への欲望をもつのではないか。しらなかったことを知りたいとおもったり、なぞを解きたいというのはすべて、「空白」への欲望の具体例だ。サングラスとマスクは、フジの顔を「空白」にする。詳しく調べれば確かに編集ミスなどの際の顔ばれ写真を見ることも可能だが、それよりも多くの人は他のものでその「空白」を埋めようとする。たとえば、顔と対照的に露出される胸元や、声、肌の色や手、服装など顔のほかに見えるところや、発言の内容、実況内での反応などに注視させられる。「隠す」ことは、隠されたものの周辺をよけいに露出させるという矛盾した効果がある

 

 そして、そのようにフジを注視すると、気がつくのは彼が多才すぎて「つかみどころのない」ということだ。これを形容するのが「雰囲気イケメン」というワードだろう。曖昧な空気感をあらわす「雰囲気」と主観的な魅力をあらわす「イケメン」は、かれの多才さやバランス感覚、センスのよさへの肯定的な評価を最大限言語化したものだ。その意味でサングラスにマスクという彼のいでたちの不審者的な要素は、「雰囲気イケメン」とは矛盾しないのだ。それどころか、「雰囲気イケメン」であることのひとつの要因になっているともいえるだろう。だからこそ、フジはどのグループに行っても、リスナーの中に自分の「雰囲気」を残してくれる。だから、やっぱりフジは多才で魅力的でしかない不審者だ。

 


フジの休日。

 

※ちなみに…おそろしいことに、彼は多才なのに器用貧乏ではない。笑い声の「パー子」さなど突き抜けたものも持っている。あと、マリオメーカーやアフレコで見せる異常な凝りも。恐ろしい。

 

 

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前編から、しばらくたってしまい申し訳ありません…。

ゲーム実況界隈とくに、最俺やトップ4の界隈はハッピーなニュースが多くなっていますね!「おめでとうございます!」「楽しみです!」と言いたいことが多すぎて、若干うれしいパニックです。

 

次、もし書くとしたら…だれになるでしょうか。笑

また、がんばります!!!

 

うちの猫くんが一歳になった日に思うこと【ちょびっと雑談】

 

  今日はめちゃくちゃ日記となりますが、一個人として猫とともに暮らすことについて語らせていただきたいと思います🙇

 

  というのも、今日はうちの猫くんの誕生日なのです。うちの猫くんは、このうちにきて半年以上。来たときはほんとうにちっちゃかったのですが、いまでは家族みんなに愛され、大きく健やかに育ってくれました☺️

  ひとえにいままで関わってくれた方々やなによりこの子のパパ猫さん、ママ猫さんのおかげです。

 

  さて、このとてもおめでたい機会に、猫を飼うこと(あるいは猫とともに暮らすこと)についての超個人的体験談と雑感を書いていきたいと思います🙇

 

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    結論からいえば、ちゃんと知識をもって一緒にくらせば、「いいことしか起きない!」です。

  知識とは、たとえば、猫がされて嫌なことを知るとか、猫が健康に暮らせるように食事や水について知るとか、健康のバロメーターであるトイレのことをしるとか。とにかく、一緒に暮らすまえに基本的なことは覚えておくということだとおもいます。

  暮らしはじめてから、本やインターネットではしりえないような理解できない行動をとったときはまよわず、獣医さんに相談するのがいいとおもいます。細かいことでも、お聞きすると適切なアドバイスをいただけます!

  ブログ主のばあい、猫くんが懐いてくれた頃、十分運動してるはずなのに、主をキャットタワーみたいに登ることがありました。かわいらしいですが、すでに発達した爪が痛くて足が傷だらけに…。相談すると、丁寧に対策を一緒に考えてくださりました。(※もちろん、先生もお忙しいので質問はまとめてメモしていくのがいいですね※)

 

 

  いいことしかない、というのは本当なんです!!猫くんが毎日くれる元気や癒し(かわいらしい顔やしぐさ、声など)は、いろんなことを頑張れる動機をつくってくれます。激動の日々がありましたが、猫くんのおかげですぐに立ち直り目標をみつけられました☺️

 

  そのうえ、決まった時間や曜日などにお世話の予定が入ると時間が上手につかえるようになった気がします。重たいもの(エサや猫砂)をもつのでパワフルにもなりますよ!文化系ふにゃふにゃ体型の主も、上腕二頭筋が鍛えられました笑(腕の筋肉ぽっこりです)

 

 もちろん、長期間家を開けられないことや傷がたえないこと(うちのこは猫のなかでもやんちゃなのだと獣医さんにお墨付きいただきました笑)、費用の心配などありますが、それは知識を蓄えることである程度軽減されますし、そのうえ、お金や傷の心配、旅の楽しみ以上に、猫くんとの親子のような姉弟のような恋人のような形容しがたい特別な関係や、あたたかい気持ち(平板な表現になるくらいの気持ちです)をもたらしてくれています!

 

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  以上の内容は、もちろん、猫と暮らせ!というメッセージではありません。個人的には猫くんがきて、こんなにいいことしかなかったという体験をしました!っていう話です。ちょっとはなにかの参考になればと思い書きました☺️

  そして、主が猫くんがきて、幸せなように猫くんも幸せだにゃって思ってもらえるように日々精進しようとおもいます。

  そんなことを思うほど、今日は幸せな気分でございました☺️

 


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【よく聞くと怖い】「ホテル・カリフォルニア」と「リバーサイドホテル」にみる繰り返すこと、迷宮【ちょっとだけホラー】

 昨年流行った映画、『ボヘミアン・ラプソディー』。この映画でも出た逸話としてよく出されるのは、名曲「ボヘミアン・ラプソディー」が長すぎて「ラジオでこんな曲流せない!!」と編集を要求し、バンド=クイーンが反抗したという話だ。このはなしとまったく同じような逸話を持つ曲がある。「ボヘミアン・ラプソディー」から一年後にリリースされた「ホテル・カリフォルニア」(1977)だ。「ホテル・カリフォルニア」は、アメリカのビッグバンド、イーグルスの代表曲となる。しかし、この曲は「ボヘミアン・ラプソディー」と違う。それは、「ボヘミアン・ラプソディー」がダイナミックに変調していくのに対し、「ホテル・カリフォルニア」はとにかく反復することだ。

 そして、この点においては、邦楽界のビッグネーム、井上陽水「リバーサイドホテル」(1982)がそれをかなり本質的に通底している。今回はこのことについて書いていこうと思う。

 

 

〈注意〉

※夏なので、ちょっとだけホラーです。

※音楽的、英語的知識がいまいちなため、多少の誤りがあるかもしれません。申し訳ございません。

 

 

 

反復することと「不気味なこと」

 『ホテル・カリフォルニア』では、主体に何度も反復して聴こえる声がある。それは、サビあたまの以下のフレーズだ。

 

 Welcome to the California

 Such a lovely place (such a lovely place)

 Such a lovely face

(意訳;ホテル・カリフォルニアへようこそ

 とても素敵な場所です(素敵な場所です)

 とても素敵なスタッフがおります)

 

 

 これは歌詞の上できいてみると幻聴のようだ。それが何度も歌の中で再生されていく。怖い。しかし、この曲の「反復」はこれだけではない。曲の構成。Aメロ、Bメロ、サビ、Aメロ、Bメロ、サビ、Aメロ、Bメロという「繰り返し」による構成を採用している*1しかも、極めつけは、ギターソロになるがその後半は、リフ、そのリフのフェードアウトとなっていく。この曲はあきらかに「反復」が「恐怖」(とくにゴシックホラー)に結びついて強調されている。

 そのうえこの曲が妙なのは、最初にホテルに着いた時の感想(最初のBメロに登場する歌詞)、“this could be heaven or this could be hell”(訳:天国かもしれないし、地獄かもしれない)という違和感がだんだんと増幅していくことであろう。三度目のAメロではあきらかに尋常ではない状況が示されていく。

 

Mirrors on ceiling,

The pink champagne on ice

And she said ‘we are all just prisoner here, of our own device’

And in the master’s chambers,

They gathered for the feast

They stab it with their steely knives,

But they can’t kill the beast

(意訳:鏡張りの天井

   氷の上にはシャンパ

 彼女はいう「私たちはみな自分自身に縛られた囚人なの」

 そして、ホテルの主人の執務室では

 彼らが饗宴のために集められ

 硬いナイフで「それ」を刺している

 でもその怪物を殺すことができないんだ)

 

 

 Prisoner(囚人)というホテルに似つかわしくない人の表現、ナイフで怪物を突き刺すが、殺せないという反復の描写は、ここが「ただ」のホテルではないことを示している。少なくとも「休憩」という意味での非日常の提供を行っていないことはあきらかだ。反復の奥にはふれてはいけないような「不気味」さが渦巻いている。

 

 

 一方、「リバーサイドホテル」も異常なまでの「反復」が構成の核心にあるようだ。特に、そのハイライトとなるサビの歌詞をみてみよう。

 

ホテルはリバーサイド

川沿いリバーサイド

食事もリバーサイド

Oh リバーサイド

 

 この曲の構成も、Aメロ→サビ→Aメロ→サビ→サビというやはり、「反復的」なもの。なかでも何度も「繰り返される」サビに、「リバーサイド」という言葉が、「繰り返される」。

 「繰り返し」の入れ子構造だ。「川沿いリバーサイド」は、訳せば「川沿い川沿い」となり、「反復」への執着が垣間見える。「誰も知らない夜明け」「チェックインなら寝顔を見せるだけ」という各メロディの冒頭の意味の不確定性や、「ネオンの字」「ベッドの中で魚になった後」、「夜の長さを何度も味わえる」という性愛を感じる歌詞などを加味すれば、「川沿い」が川とその岸との接着点であるように、「あちら/こちら」とのまじわるような「際」、もっといえば非常に縁起の悪い死への過渡を感じさせるのだ。川が選出されていることのイメージがかかわるだろう(例;三途の川)。「リバーサイド」のねちっこさと井上陽水の歌唱法にも親和性がある。

 

 反復がじつは「不気味」なものであることは、すでにフロイトが明らかにしていたことだ。たとえば、以下のような例で、フロイトは「反復」の「不気味」さをあらわしている。

 

ところが、個別にはどうでもよい二つの出来事が、間隙を置かずに立て続けに起こり、六十二という数字に同じ日のうちに何度も出会うということになると、いやそれどころか住所、ホテルの部屋、鉄道の車室など、番号がつくものがどれもこれも六十二であったり、あるいは六十二を部分的に含んでいることに気がつくとなると、印象はがらりと変わる。それは、「不気味なもの」とみなされるだろう

――ジークムント・フロイト「不気味なもの」『笑い/不気味なもの』原章二訳、平凡社ライブラリー、2016年、P238

 

 

 

 

繰り返すことは「安定」か「恐怖」か

 さて、この項目では歌からは若干それてしまうが、「繰り返す」ことそのものについて考えていこう。先ほど挙げた二つの歌、フロイトの説は、いずれも「繰り返し」=「反復」が人間の心理や印象にあたえるような「不安定さ」を導き出すものとして考えられている。 フロイトのあげた例は、偶然の繰り返しがもたらす「不安定さ」への効果を実感的させてくれる好例といえよう。しかしながら、「繰り返し」=「反復」は「日常」や「法則」とも大いに関連している。

 毎日同じような「日常」や生活の予測を立てさせてくれる「法則」は根源的には「安定」を導くものだろう。朝同じような時間に起きること、ぼーっとしながら掃除ができること、料理の際においしくできるひと手間を知っていることは、どちらかといえば、幸福や平穏さに似る。毎日、刺激的な新しいことばかり起こるのでは、おそらく人間は疲れてしまうのだから。作品中でも、いつも敵を倒してくれるトム・クルーズは頼もしく、水戸黄門にみられるようないつもの展開はもはや様式美だ。ここには「恐怖」よりも「安心」や「爽快さ」がみられる。

 

 では、その不安定と安定の両義的な効果をもたらす分岐点とはなんだろうか。それは、おそらくそれが、「選択可能であるかどうか」、にゆだねられている。

 

 

 

「迷宮」-でられないこと、終わらないこと

 結果から言えば、「選択が不可能である(逃げられない)」というのが、「繰り返し」=「反復」が「恐怖」に結びつく要件ではないだろうか。選択ができるというのは、「反復」を起こさないことが可能である証拠だ。日常では、私たちがモーニングルーティーンを変えることは可能だし、仕事帰りには寄り道もできる。また、法則は、“こうすればこうなる”、とわかっていることにある。だから、塩分を控えたいなら、塩を少なめにしようとできる。

 

 しかしながら、先のフロイトの例や二つの曲がしめすのは、それが「逃れられない」ものとなることだ。つまり、「ホテル・カリフォルニア」も「リバーサイドホテル」も抜け出せないものとして「迷宮」化されており、そのなかではとにかく「繰り返し」が個人の意思や意図にかかわらず続いていく。これが、怖い。

 

 思い出してみよう。この曲には「行きはあるが帰りがない」。『ホテル・カリフォルニア』のラストは以下のような歌詞だった。

 

Last thing I remember, I was

Running for the door

I had to find the passage back to the place I was before

‘Relax’ said the night man,

“We are programmed to receive.

You can check out any time you like,

But you can never leave!”

(意訳:僕が最後に覚えてることといえば、

 ドアへと走っていった

 元居た場所への道を探さなければならなかったからね

 「落ち着いて」って警備員はいってさらにこう続けた

 「俺たちは受け入れなきゃならないんだよ

いつでも好きな時にチェックアウトできるけど、

ここからは決して離れられないってことをね」)

 

 

 

 行きはハイウェイからおそらく自分の意志でやってきた主人公は、ここにいたって、「チェックアウトはできるけど、決して離れられない(=生きては帰れないの意味か)」という言葉を聞き、この曲の歌唱部分は終わる。つまり、行きはあるけど、「帰れない」。選択は、不可能だと告げられる。この出られなさは、建物が要塞化したような、あるいはクローズドサークルのようになったような、強迫観念的な恐怖心(つまり、迷路からでられなくなり、どうしようもなく途方に暮れるような心情)を呼び起こす。「ホテル・カリフォルニア」は迷宮であり、「帰れない」ことは、(迷ったままの状態など)同じことが永遠につづくようで「どうしようもなく」怖い。

 

 おなじようなことは、「行き」が「町の角からステキなバスが出る」と描写しながら、「行く先をたずねるのにつかれはて」とその先が選択不可能であることを示唆し、チェックアウトが同じように存在しないことにも関係する。「チェックインは寝顔を見せるだけ」ならば、「チェックアウト」はどうなったのだろう。この状況は、あの童謡のあの歌詞を思い出さざるをえない。「行きはよいよい 帰りはこわい」…

 

 

 さて、このような反復と迷宮が恐怖の発露させることは、「ゴシックホラー」というジャンルで確立されていることにも触れておこう。個人的にこの記事の内容にあっているのは、『回転』(ジャック・クレイトン監督、1961年、英)だとおもうのでこの夏ホラー映画を見たい人には進めておきたい。

 

小説や映画のジャンルの一つ。ヨーロッパのゴシック風の古城や寺院などを舞台に、超自然的な怪奇を描いたものを指す。→ゴシック小説 →モダンホラー

ゴシックホラーとは - コトバンク

  

 

匿名であること。視点の浮遊。

 最後に、よく見ると怖い点がもうひとつあるのがわかるだろうか。それは、だれが語っているのか。第三者的な視点の『リバーサイドホテル』はまだしも、『ホテル・カリフォルニア』の視点は「I(=俺)」の一人称のはずだ。その「I」は、ラスト「出られない」ことを宣告されたはずだ。では、だれがどこで過去のことのように「ホテル・カリフォルニア」について語っていたのだろうか。 そもそも、「Last thing I remember」(=覚えている最後のこと)というが、何の最後なのか。

 

 そう。『ホテル・カリフォルニア』の「I」は最後まで見れば、「霊体化」していることがわかる。われわれは、誰の声を聴いていたのだろう。“welcome to the Hotel California ”とは、語り手の幻聴のようだが、霊体のような声を聴いている我々、リスナーも幻聴をきいていたのではないだろうか。それは、この曲に最後に仕掛けられたトラップのようである。この曲は後日談ではない。いまも恐怖を再生する反復機械なのかもしれない。

 

 そういえば、『リバーサイドホテル』の語り手も「誰も知らない夜明け」をどう知ったのだろう…。

 

 

 

パーフェクト・ヒッツ1971?2001

パーフェクト・ヒッツ1971?2001

 

 

 

 

 

*1:メロディ構成は音楽に詳しくないため自信がなく申し訳ございません。ただここで強調したいのは「繰り返し」の構造です。

【最俺】魅力的でしかない不審者ゲーム実況者ことフジさん【バカかよっ】;前編

 

 最終兵器俺達については、キヨさん、ヒラさんについて書いてきましたが、なかなか第3弾であるフジさん編を書けずにいました。あまりにも多才で書くことの輪郭がぼやけてしまうからです。
しかしながら、多才というキーワードこそ、フジさんの魅力をもっともあらわしたものなのだと気がついたのでした。うーん。灯台もと暗しというやつでしょうか…。

前置きはこれくらいにして、とにかくフジさんの魅力を特に複数実況の観点から書いていきたいと思います!とはいえ、たまに「にわかかよっ」っておもうかもしれませんが、よろしくお願いします。

 

(最終兵器俺達の過去記事part1については以下のようになっております↓↓)

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

 

 

多才だからこその「いじりやすさ」

 最俺の実況ではよく、「喧嘩」ということばがタイトルで使われるようにプレイ途中ギスギスの空気感(もちろんガチ不仲ではないが)が流れることがある。


夜中にみんなで料理作ったら大喧嘩した


 この独特の空気感の「ガチ感」をやわらげるのがフジがもっている「いじりやすさ」だろう。理不尽な怒りや煽りをうけることが他メンバーに比べ多いが、それを受け入れることができる「軟らかさ」(軟体性ともいえるかもしれない)があるからだ。
 その背景にあるのは明らかな多才さだ。絵がうまくセンスがあり(その手の学校に通っていたという:マリオメーカーでの凝ったコース作りは記憶に新しい)、ベースが弾け(ゲーム実況者わくわくバンド参照)、協調性もある(キヨがよく協力実況をするガレキ牛=トップ4にも簡単に入っていけ、最俺、トップ4+フジ、わくバンと他者とバランスをとるのがうまい)。どのゲームも事前にリサーチしたり、理解が速いなど、努力家でもある。そのうえ、キヨいわく、「編集がうまく」(イクラ参照)「優しくてリア充」。他人が羨望するような多才な能力をもっている。だから、キヨやこーすけが「いじる」ことが、リスナーからも「いじり」だと認められやすいのだろう(つまり、「いじめ」と混在されないこと)。これが、最俺のなかでバランサーとしての「軟らかな」フジの根底なのかもしれない。逆に言えば、キヨやこーすけがいじることで、フジの器用さ、多才さがあまり、鼻につかなくなっているようにも作用しているのかもしれない。フジの軟らかさは、相互作用をももたらした。

 


【実況】 みんなで作って激闘!マリオメーカー2大戦 【Part5】


ゲーム実況者わくわくバンド『デンシンタマシイ』MV


【協力実況】 狂気のマインクラフト王国 Part1 【Minecraft】

 

 

 ちなみに、「多才」であることは、「軟らかさ」と通底している。「多才」であることで、「いじり」などの受け身になった際、その対応への引き出しが多いということだ。だから、彼は、彼自体の関節や動きと相似して「軟らかい」のだろう。その意味で、彼がMよりなのは必然的なのかもしれない…??それは考えすぎか。

 


ツッコミとは「受け身」であること?

 漫才やコント、「笑い」の体系のひとつとしてボケとツッコミがある。このとき、能動性を持つのは仕掛けをする側=ボケであり、そのボケを観客との間にいて際立たせるのが、ツッコミである。つまり、発生論的にはボケ→ツッコミなのだ。

 それを、特にゲームをしながら即興的に行うのがゲーム実況と思われる。ボケはゲームのなかに存在することもあるが、最俺の場合、キヨのボケ、こーすけの悪のり、ヒラの天然など、突如発生する場合も多い。供給過多のボケのなか、それを「軟らかさ」をもってそれを時にノリ、時にツッコミをし、そのツッコミも声の強弱をつけ、ワードをしていく。ツッコミは「軟体」でなければならないのかもしれない。
 だから、フジはボケが転がっていれば転がっているほどいきいきとする。たとえば、『シーマン』のように。シーマンは個人実況の中でもおすすめの一作だ。

 

 

 


常識的ツッコミ/下ネタのボケ


 「YouTubeナンバーワンツッコミ実況者」(キヨ)であるから、もちろん、ツッコミは目立つかもしれないが、フジはツッコミだけではない。フジの軟らかさは、ボケにもゆるゆると浸潤していく。彼の代表的なボケは、そう、下ネタだ。ツッコミのときにみせる、あのバランス感覚や常識の顕在と真逆のぶっとんだ下ネタをみせる

 下ネタは、好き嫌いを問うボケの形だろうが、最俺の場合、キヨがいうとなぜかすべてが大学生並みの(良い意味で軽い)響きをもつのを筆頭に、ヒラはそれが下ネタに聞こえず、フジはなぜか内容のいかんに問わず、下品に聞こえない。そのうえ、なぜか生々しくもない。この下ネタひとつとっても、下品な言葉を「軟化」させてボケとして笑いに昇華させる。それは、のちに言及しようとおもうが、声や振る舞い、服装も含めた「なにかしら洗練された雰囲気」(≒紳士的オーラ)と関連があると思われる。

 

 基本的にテンポが早い最俺実況(実写含む)にとって、キヨが作るテンポを落とさず、過多なボケを処理し、発言が少なくなるとみればヒラにネタを振り、こーすけのツッコミを引き出すえぐめの下ネタも和らげつつぶっこんでいくフジの能力は、ほかの3人の流れや空気のなかに「軟らか」さ対応してくれる。それを無理なくできるところが、フジの魅力のひとつなのだろうか。

 

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 さて以上でとりあえず前編とさせていただきます!

 後半は近日公開予定です。

 

 この原稿やアイディアは、みなさまとの趣味トークから、気づかされました。いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします!

 

 

※追記:後半はこちらになります↓↓

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

【日テレ系、2016年】『そして、誰もいなくなった』、ラストに魅せた伊野尾慧の女性的「美しさ」と「悪」

当原稿は、ドラマ・映画等映像作品分析の専門ブログにお引越ししました(その際に若干の加筆修正もあります)!

チェックは下のリンクからよろしくお願いします!!!

 

blog.livedoor.jp

【祝百万人到達】カジサックさん波は「YouTuber」をアプデした!!

 

 

カジサックさんが先日、百万人を突破しました。あらためて、カジサックさん、チームカジサックの皆様、そしてリスナーの皆様おめでとうございます。以前、このブログで書いたように、カジサックさんはYouTuberという存在について思考していたようにおもいます。

 

日本のなかでYouTuberに関しては、正直、親しみやYouTubeがそれまで慣れ親しんだ「成り上がり物語」=「知名度獲得への道」に対し、リスナー側のこだわりのようなものがあったようにおもいます。

そこで求められるのは「センスのある素人」であったのではないでしょうか。それは、いい意味では、エンタメの担い手のそのものの個性への敬意や「親しみ」への愛着だとおもいますが、一方で「どこでもだれでも」が売りのYouTubeにあって、エンタメの玄人が 排除されがちな矛盾した状況を産み出していたのかもしれません。そして、知らず知らずに「YouTuber」というものをぼんやり定義し、凝り固まった「伝統」にしてしまうところでした。エンタメをみるときに新しいものを拒否することだけではいけないとあらためて、自戒をこめておもいました。

 

 

もともと知名度があり、芸人としても知られているカジサックさんの挑戦と第一章となるであろう登録者数100万人の達成は、おそらく多くのリスナーたちに「YouTuber」という定義の更新=アップデートを成功させたのだとおもいます。芸人さんだけでなく、さまざまな有名人の方が、このような芸能人アレルギーのないYouTubeにおいてまたあたらしいひとつの波をつくりつつあります。また少し違ったかたちの「YouTube」というエンタメの目撃者になれるのではとワクワクしている方も多いとおもいます。その震源地、つまり波動の中心はカジサックさんだとおもいます。


カジサックチャンネルで、まだまだ見てみたいものがたくさんあります。100万までとはまたちがうなにかを。なるべく6時に、動画をみるべくスマホのまえで待ちたいとおもいます。新しく発表される夢のそのさきにみえてくるものの目撃者になるために…です。