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院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【よく聞くと怖い】「ホテル・カリフォルニア」と「リバーサイドホテル」にみる繰り返すこと、迷宮【ちょっとだけホラー】

 昨年流行った映画、『ボヘミアン・ラプソディー』。この映画でも出た逸話としてよく出されるのは、名曲「ボヘミアン・ラプソディー」が長すぎて「ラジオでこんな曲流せない!!」と編集を要求し、バンド=クイーンが反抗したという話だ。このはなしとまったく同じような逸話を持つ曲がある。「ボヘミアン・ラプソディー」から一年後にリリースされた「ホテル・カリフォルニア」(1977)だ。「ホテル・カリフォルニア」は、アメリカのビッグバンド、イーグルスの代表曲となる。しかし、この曲は「ボヘミアン・ラプソディー」と違う。それは、「ボヘミアン・ラプソディー」がダイナミックに変調していくのに対し、「ホテル・カリフォルニア」はとにかく反復することだ。

 そして、この点においては、邦楽界のビッグネーム、井上陽水「リバーサイドホテル」(1982)がそれをかなり本質的に通底している。今回はこのことについて書いていこうと思う。

 

 

〈注意〉

※夏なので、ちょっとだけホラーです。

※音楽的、英語的知識がいまいちなため、多少の誤りがあるかもしれません。申し訳ございません。

 

 

 

反復することと「不気味なこと」

 『ホテル・カリフォルニア』では、主体に何度も反復して聴こえる声がある。それは、サビあたまの以下のフレーズだ。

 

 Welcome to the California

 Such a lovely place (such a lovely place)

 Such a lovely face

(意訳;ホテル・カリフォルニアへようこそ

 とても素敵な場所です(素敵な場所です)

 とても素敵なスタッフがおります)

 

 

 これは歌詞の上できいてみると幻聴のようだ。それが何度も歌の中で再生されていく。怖い。しかし、この曲の「反復」はこれだけではない。曲の構成。Aメロ、Bメロ、サビ、Aメロ、Bメロ、サビ、Aメロ、Bメロという「繰り返し」による構成を採用している*1しかも、極めつけは、ギターソロになるがその後半は、リフ、そのリフのフェードアウトとなっていく。この曲はあきらかに「反復」が「恐怖」(とくにゴシックホラー)に結びついて強調されている。

 そのうえこの曲が妙なのは、最初にホテルに着いた時の感想(最初のBメロに登場する歌詞)、“this could be heaven or this could be hell”(訳:天国かもしれないし、地獄かもしれない)という違和感がだんだんと増幅していくことであろう。三度目のAメロではあきらかに尋常ではない状況が示されていく。

 

Mirrors on ceiling,

The pink champagne on ice

And she said ‘we are all just prisoner here, of our own device’

And in the master’s chambers,

They gathered for the feast

They stab it with their steely knives,

But they can’t kill the beast

(意訳:鏡張りの天井

   氷の上にはシャンパ

 彼女はいう「私たちはみな自分自身に縛られた囚人なの」

 そして、ホテルの主人の執務室では

 彼らが饗宴のために集められ

 硬いナイフで「それ」を刺している

 でもその怪物を殺すことができないんだ)

 

 

 Prisoner(囚人)というホテルに似つかわしくない人の表現、ナイフで怪物を突き刺すが、殺せないという反復の描写は、ここが「ただ」のホテルではないことを示している。少なくとも「休憩」という意味での非日常の提供を行っていないことはあきらかだ。反復の奥にはふれてはいけないような「不気味」さが渦巻いている。

 

 

 一方、「リバーサイドホテル」も異常なまでの「反復」が構成の核心にあるようだ。特に、そのハイライトとなるサビの歌詞をみてみよう。

 

ホテルはリバーサイド

川沿いリバーサイド

食事もリバーサイド

Oh リバーサイド

 

 この曲の構成も、Aメロ→サビ→Aメロ→サビ→サビというやはり、「反復的」なもの。なかでも何度も「繰り返される」サビに、「リバーサイド」という言葉が、「繰り返される」。

 「繰り返し」の入れ子構造だ。「川沿いリバーサイド」は、訳せば「川沿い川沿い」となり、「反復」への執着が垣間見える。「誰も知らない夜明け」「チェックインなら寝顔を見せるだけ」という各メロディの冒頭の意味の不確定性や、「ネオンの字」「ベッドの中で魚になった後」、「夜の長さを何度も味わえる」という性愛を感じる歌詞などを加味すれば、「川沿い」が川とその岸との接着点であるように、「あちら/こちら」とのまじわるような「際」、もっといえば非常に縁起の悪い死への過渡を感じさせるのだ。川が選出されていることのイメージがかかわるだろう(例;三途の川)。「リバーサイド」のねちっこさと井上陽水の歌唱法にも親和性がある。

 

 反復がじつは「不気味」なものであることは、すでにフロイトが明らかにしていたことだ。たとえば、以下のような例で、フロイトは「反復」の「不気味」さをあらわしている。

 

ところが、個別にはどうでもよい二つの出来事が、間隙を置かずに立て続けに起こり、六十二という数字に同じ日のうちに何度も出会うということになると、いやそれどころか住所、ホテルの部屋、鉄道の車室など、番号がつくものがどれもこれも六十二であったり、あるいは六十二を部分的に含んでいることに気がつくとなると、印象はがらりと変わる。それは、「不気味なもの」とみなされるだろう

――ジークムント・フロイト「不気味なもの」『笑い/不気味なもの』原章二訳、平凡社ライブラリー、2016年、P238

 

 

 

 

繰り返すことは「安定」か「恐怖」か

 さて、この項目では歌からは若干それてしまうが、「繰り返す」ことそのものについて考えていこう。先ほど挙げた二つの歌、フロイトの説は、いずれも「繰り返し」=「反復」が人間の心理や印象にあたえるような「不安定さ」を導き出すものとして考えられている。 フロイトのあげた例は、偶然の繰り返しがもたらす「不安定さ」への効果を実感的させてくれる好例といえよう。しかしながら、「繰り返し」=「反復」は「日常」や「法則」とも大いに関連している。

 毎日同じような「日常」や生活の予測を立てさせてくれる「法則」は根源的には「安定」を導くものだろう。朝同じような時間に起きること、ぼーっとしながら掃除ができること、料理の際においしくできるひと手間を知っていることは、どちらかといえば、幸福や平穏さに似る。毎日、刺激的な新しいことばかり起こるのでは、おそらく人間は疲れてしまうのだから。作品中でも、いつも敵を倒してくれるトム・クルーズは頼もしく、水戸黄門にみられるようないつもの展開はもはや様式美だ。ここには「恐怖」よりも「安心」や「爽快さ」がみられる。

 

 では、その不安定と安定の両義的な効果をもたらす分岐点とはなんだろうか。それは、おそらくそれが、「選択可能であるかどうか」、にゆだねられている。

 

 

 

「迷宮」-でられないこと、終わらないこと

 結果から言えば、「選択が不可能である(逃げられない)」というのが、「繰り返し」=「反復」が「恐怖」に結びつく要件ではないだろうか。選択ができるというのは、「反復」を起こさないことが可能である証拠だ。日常では、私たちがモーニングルーティーンを変えることは可能だし、仕事帰りには寄り道もできる。また、法則は、“こうすればこうなる”、とわかっていることにある。だから、塩分を控えたいなら、塩を少なめにしようとできる。

 

 しかしながら、先のフロイトの例や二つの曲がしめすのは、それが「逃れられない」ものとなることだ。つまり、「ホテル・カリフォルニア」も「リバーサイドホテル」も抜け出せないものとして「迷宮」化されており、そのなかではとにかく「繰り返し」が個人の意思や意図にかかわらず続いていく。これが、怖い。

 

 思い出してみよう。この曲には「行きはあるが帰りがない」。『ホテル・カリフォルニア』のラストは以下のような歌詞だった。

 

Last thing I remember, I was

Running for the door

I had to find the passage back to the place I was before

‘Relax’ said the night man,

“We are programmed to receive.

You can check out any time you like,

But you can never leave!”

(意訳:僕が最後に覚えてることといえば、

 ドアへと走っていった

 元居た場所への道を探さなければならなかったからね

 「落ち着いて」って警備員はいってさらにこう続けた

 「俺たちは受け入れなきゃならないんだよ

いつでも好きな時にチェックアウトできるけど、

ここからは決して離れられないってことをね」)

 

 

 

 行きはハイウェイからおそらく自分の意志でやってきた主人公は、ここにいたって、「チェックアウトはできるけど、決して離れられない(=生きては帰れないの意味か)」という言葉を聞き、この曲の歌唱部分は終わる。つまり、行きはあるけど、「帰れない」。選択は、不可能だと告げられる。この出られなさは、建物が要塞化したような、あるいはクローズドサークルのようになったような、強迫観念的な恐怖心(つまり、迷路からでられなくなり、どうしようもなく途方に暮れるような心情)を呼び起こす。「ホテル・カリフォルニア」は迷宮であり、「帰れない」ことは、(迷ったままの状態など)同じことが永遠につづくようで「どうしようもなく」怖い。

 

 おなじようなことは、「行き」が「町の角からステキなバスが出る」と描写しながら、「行く先をたずねるのにつかれはて」とその先が選択不可能であることを示唆し、チェックアウトが同じように存在しないことにも関係する。「チェックインは寝顔を見せるだけ」ならば、「チェックアウト」はどうなったのだろう。この状況は、あの童謡のあの歌詞を思い出さざるをえない。「行きはよいよい 帰りはこわい」…

 

 

 さて、このような反復と迷宮が恐怖の発露させることは、「ゴシックホラー」というジャンルで確立されていることにも触れておこう。個人的にこの記事の内容にあっているのは、『回転』(ジャック・クレイトン監督、1961年、英)だとおもうのでこの夏ホラー映画を見たい人には進めておきたい。

 

小説や映画のジャンルの一つ。ヨーロッパのゴシック風の古城や寺院などを舞台に、超自然的な怪奇を描いたものを指す。→ゴシック小説 →モダンホラー

ゴシックホラーとは - コトバンク

  

 

匿名であること。視点の浮遊。

 最後に、よく見ると怖い点がもうひとつあるのがわかるだろうか。それは、だれが語っているのか。第三者的な視点の『リバーサイドホテル』はまだしも、『ホテル・カリフォルニア』の視点は「I(=俺)」の一人称のはずだ。その「I」は、ラスト「出られない」ことを宣告されたはずだ。では、だれがどこで過去のことのように「ホテル・カリフォルニア」について語っていたのだろうか。 そもそも、「Last thing I remember」(=覚えている最後のこと)というが、何の最後なのか。

 

 そう。『ホテル・カリフォルニア』の「I」は最後まで見れば、「霊体化」していることがわかる。われわれは、誰の声を聴いていたのだろう。“welcome to the Hotel California ”とは、語り手の幻聴のようだが、霊体のような声を聴いている我々、リスナーも幻聴をきいていたのではないだろうか。それは、この曲に最後に仕掛けられたトラップのようである。この曲は後日談ではない。いまも恐怖を再生する反復機械なのかもしれない。

 

 そういえば、『リバーサイドホテル』の語り手も「誰も知らない夜明け」をどう知ったのだろう…。

 

 

 

パーフェクト・ヒッツ1971?2001

パーフェクト・ヒッツ1971?2001

 

 

 

 

 

*1:メロディ構成は音楽に詳しくないため自信がなく申し訳ございません。ただここで強調したいのは「繰り返し」の構造です。