猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【思考ノート】エンタメとマイナスの「感情」関係、表現の「構築」【雑感】

 エンタメとマイナスの感情はおそらくとても微妙でセンシティブな関係性にある。と感じたのは、あるドラマをみたことにある。もともとドラマが好きなので、よくいろんな分野の作品をみるのだが、自分史上はじめて不愉快になって一話で視聴をやめてしまった。もちろん、作品との相性とか個人的嗜好の影響は大きい。しかしながら、この体験をきっかけにエンタメの中で「マイナスの感情」を扱うということは非常に難しいということを改めて自覚した。このことについて、今後の思考のために思考ノートを残しておきたい。

 

―――――――――――――――

 

マイナスの「感情」と緩和

 マイナスの感情=悲しみや怒りなどは、おそらくそれが乗り越えられるだろうと強く予想される場合、一種の障壁と認識され、視聴を妨げない可能性がある。予想が引き起こされるのは、配役(スター俳優の有無)、ヒーローや探偵役の有無、物語構成の形式などがかかわる。『アンパンマン』や『ウルトラマン』など多くの子供向けの作品や、『シャーロック・ホームズ』シリーズなど有名な探偵やミステリーものにみられる。短い時間の中で悪の発生とその解決がおこなわれるだろうという物語=時間の定型化(おきまりという認識)も関連すると思われる。

 

 あるいは、あまりにも非現実的な場合もマイナスの感情は物語の一種の装置として認識される。デフォルメされた悪役、悪そのものの形象の誇張などがあてはまる。『スターウォーズ』シリーズにおけるダースベイダー卿など。『バッドマン』シリーズ、『ダークナイト』におけるジョーカーのような悪が魅力的になってしまうという恐ろしい現象も起こってしまうこともある。『半沢直樹』の設定はリアルだったが、香川照之演じる大和田専務はデフォルメがあり、それが不快感を超えていたという例なのかもしれない。

 

 

マイナスの「感情」の強化

 一方、ホームコメディや労働物のような「日常」もののなかで、「ありそうな現象」、「ありそうな人」はリアルさが「いたたまれなくなる」ことがあるため、その関係性は非常に微妙になっていく。見ている側にいかにリアルでありながら「この物語はフィクションです」と思わせられるのか、非常に難しいバランスが必要となる。『ハケン占い師アタル』などはそのあたりのバランスの配分があったように思う。あるいは、相棒9の「ボーダーライン」とか。

 

 悪のためている時間が長いと冗長に思え、不快感が(ひとそれぞれ閾値はあれど)視聴中断につながってしまう可能性がある。ドラマでいうと一話完結形式はそのぎりぎりを攻めやすく、最終回まで使う話だと難易度は高くなる。逆に15分くらいの昼ドラ形式だと、不快感の載積が緩和される可能性もある。映画は、上映時間がさきにしられているので、その点は有利かもしれない。映画で、怒りを煽りぎりぎりみられるものに挑戦したのは『ファニー・ゲーム』だろう。

 

 

――――――――――――――――― 

以上、今後の思考へのノートでした。

「こんな視点があるよ」とか、「こんな例(作品)あるよ」などありましたら、ぜひ教えていただきたいです。

いつか、この原稿をブラッシュアップさせて精密なものにしていけたらなとおもった八月の終わりでした。