【King & Prince】記憶は褪せるからこそ美しい~儚さの美学「Glass Flower」
アイドルは「儚い」存在なのかもしれません。昭和期には、それぞれの記憶に深く残るように太く短く活動し解散していく「青春」のような存在でしたし、現在、長く活動するアイドルも「いつ辞めてもおかしくない」という「儚さ」を孕んでいるような気がします。
「儚さ」-「アイドル」の紐帯をこれ以上なく美しく歌い上げているのではないかと思う珠玉のバラードがあります。King & Princeの「Glass Flower」です。この曲では、「記憶」が「花」と結びつけられ、「儚いからこそ美しい」しかしだからこそ「切ない」という命題を聞き手につきつけます。今回はこの曲についてみていきましょう。
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失われた「あなた」と輪廻観
この曲は「失恋」の曲なのだろう。冒頭だけでもそれははっきりしている。
花が咲いたよ ふたり育てるはずの 夢は眠ったよ
不思議なくらい 違和感もない
乾いた喉は あなたをもう呼ばない
「ふたり育てるはず」の花はひとりいる主人公の目の前にあり、「あなたをもう呼ばない」はダメ押しの表現だ。いるはずの「あなた」は失われていて、「花」・「夢」というやや幻想的なワードは「あなた」が主人公にとって「特別な人」(もっといえば「恋人」)だと示唆する。
この曲の秀逸な点のひとつは、はっきりと書かれてはいないが、その「あなた」に「死」のイメージがまとわりついていることだ。「Glass Flower」は、別名をボトルフラワーのことを指すと思われる。生花をシリカゲルで急速に乾燥させ、その生きていた時の色を鮮明に残し、それをガラス(ボトル)に閉じ込めたものである。“すでに死んでいるのに、鮮明で生きているように見える”人工美の象徴であり、「死」のにおいを持つ。だから歌詞は以下のように紡がれる。
加工されたGlass Flower
二度と褪せないけど
生まれ変わる事を拒んで
時を止めてる
Bright 正しい終わり方を
誰も知らない
死んだものは、「生まれ変わる」という「輪廻転生」観*1。表記に漢字が積極的に使われていること(事、拒んで、方、この後の歌詞でいえば「言う」という表記など…)からも、東洋的な死生観が浮かび上がってくる。本来なら、死という区切りをへて、転生するはずの“自然な時の流れ”を不自然に止めて、「褪せない」姿で存在している。「Glass Flower」には霊的な性質が灯る。続く歌詞を見ていこう。
もう二度と思い出さないよ
咲くよりも散るよりも
綺麗に枯れていきたい
あなたはきっと言うから
まだきっと またずっと
不自然に飾られるように
まだきっと またずっと
あなたを想うくらいなら
「Glass Flower」に仮託されているのは、「あなたの記憶」であることがわかる。「思い出す」と、「あなたの記憶」は「そのまま」「あるがまま」を失って、「咲く」(=美化される)のか、「散る」(=必要のない部分は消えていく)のかしてしまう。それを避けて、「あなた」が望むようにその記憶があるがままにするためには、「思い出さない」という消極的なたった一つの選択肢しかない。「あなたの記憶」は非常に「儚い」。「あなたを想う」ことが、「あなた」を「不自然に飾」ってしまうのは、「あなた」がいま・ここではなく過去の存在である限り避けようがないのだから。
思い出補正と「Glass Flower」
確かに過去の記憶は、「思い出す」という作業によって、美化されたり醜くゆがんだりすることがある。自分で意識していなくても、現実と再現された記憶にズレが生じてしまうことは、おそらく間違いのない事実だろう。心理学的用語でいうと、「記憶の変容」というらしい。
私たちはなにかを思い出す端から、その中身を忘れてしまうことはありません。それは、私たちが思い出すのと同時に、改めてその中身を記憶しなおしているからなのです。このとき、最初にその出来事を覚えたときには知らなかった、新しい情報を持っていることがあります。この新しい情報が、出来事の解釈にかかわる内容のとき、私たちは出来事の再評価を実際に行い、記憶を修正していくのです。
――石黒格「記憶は変化するものである」*2
「記憶」は「再生」されるとき「記憶」しなおされる。だからこそ、もとのありのままの「記憶」は、思い出されるたびにすこしずつ変容していく。「鮮明」に記憶を残そうとすると「記憶」は変容してしまうという逆説と切なさ。そのため、『Glass Flower』は「思い出さない」ようにするが、それもまた非常に抑圧的で苦しい。二番のサビはまさにそのことを綴っていく。
もう一度忘れてしまおうと
咲かしても散らしても
欠片も愛おしいままで
どこまでも透き通る
まだきっと またずっと
不器用に目を塞ぐのは
まだきっと またずっと
あの日を想っているから
結局「思い出さない」ようにしても「思いだしてしまう」。想いが強く愛おしければ愛おしいほどだろう。結局、ふたをしようとしても「どうにもならない」から、“ありのままの記憶”は、美化されていって人工的な美をおびる(その象徴が「Glass Flower」だ)か、記憶を思い出す頻度とともにフェードアウトさせていくのか…。
「綺麗に枯れていきたい」と「儚さ」の美学
その答えは、〔bridge〕の歌詞にある。
着色されて永遠を手にする
美しい悲しみはいらない
乾いて褪せて朽ちて行け
あるがままの記憶
「記憶」は、刹那的なものとして変化していくのが「美しい」。それに反し、繰り返し作り出される加工された「良い記憶」は美しいがあまりにも「悲しい」。
刹那的で諸行無常な儚い「記憶」>人工的で作られた鮮明な「記憶」。
少しずつ生け花のごとく「乾いて褪せて朽ちて」いくことこそ、「あなた」のいう「綺麗に枯れていきたい」という希望なのだから。
ここでは、ふたたび東洋的な美学の片鱗がみえてくる。今道友信は、日本の美学の趣について村田珠光(茶道の始祖とされる)に触れ、以下のように述べている。
蘭け幽む、枯れる、冷える、やせるなどという能の世阿弥、禅竹、連歌の心敬と共通しうる美的範疇にかなう風情を実現しようとした修行である。
「蘭け幽む、枯れる、冷える、やせる」は、いずれも朽ちていくことをいとわない「変化」へ美しさを見出した言葉である。「あなた」ないし「あなたの記憶」を「Glass Flower」のように見た目に美しいまま閉じ込めておくのは、一見にしてまさに美しいかもしれないが、それはいま・ここにいない幽霊として開放しない残酷な「美しさ」なのだろう。まさに、東洋的な諸行無常を受け入れることの「美学」が擦り切れるような痛みを伴ってうたわれている。変化を受け入れるからこそ、「儚い」今の「あなた」や「あなたの記憶」が「美しい」のだ。「儚さ」の美学。
「アイドル」という今・ここが刹那的に通りすぎ、変わっていくことの「儚さ」を持つ彼らとこの曲の親和性は非常に高い。だからこそ、普段は存分に輝く彼らに投影された少しの影が「儚く」「美しく」「切ない」のだろう。2019年のコンサートでの演出と彼らの表情はこの曲の世界観を強く再現していた。
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《おまけ小噺》
また、この曲を聞いていた時に、思い浮かんだのは今大河ドラマでも話題の明智光秀の娘・細川ガラシャの辞世の句だ。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
「花は散るべきときを知っているからこそ、美しい。私もそのような人でありたい。」という意味である。ガラシャは数奇な運命をたどった人で、父・光秀の謀反により嫁ぎ先の細川家にいられなくなり、一時幽閉状態で夫や子供とも会うことが叶わなくなったうえ、ようやく細川家に戻ったときには夫にはいままでいなかった側室がいるという悲劇に見舞われた。そこで、心の平安のためにと侍女の勧めによって洗礼を受け、キリスト教徒となったが、結局それによって苦しい立場になってしまう。
彼女が亡くなったのは、石田三成と徳川家康の対立のなか、石田が人質をとることで各所の大名を味方につけようとしていたときのこと。細川家は徳川方につくため人質になったら自刃しろという方針になった。ガラシャは信教(キリスト教は自殺禁止)と家の方針の間で悩み最後には夫の部下に自らを殺させるという方法で人生に幕を下ろした。
抑圧されながら、自分の人生を終わり時があるからこそ「美しい」と詠んだ彼女。それを花に仮託した発想は、この曲の「儚さ」の美学少し違うだろうがと通底しているのではないだろうか。