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浅野いにお『世界の終りと夜明け前』の「リアル」

 浅野いにおの作品における「リアル」さについて、彼の短編集『世界の終わりと夜明け前』を題材にその細部/大観という二つの視点から分析していく。

 

 

 

【以下、ネタバレ微注意】

 

 

喚起を促す細部(リアル=感覚の喚起性)

 まずは、細部に注目し浅野作品『世界の終りと夜明け前』におけるリアルを探っていこうと思う。浅野作品の細部に宿るリアルは、二次元からより作品を三次元に「感覚をよび起させるもの」=「感覚の喚起性」である。喚起性を伴う細部の主たるものは、以下の4点だ。

 

  • 景色
  • 固有の事件、事象等の挿入
  • 同一性の担保
  • 表情

 

 下記ではこの4点のうち、上の二つを例として感覚を喚起するリアルについて分析する。一つ目は、景色である。浅野の作品では景色が見開きや1ページをまるまる使って景色が挿入されたり、人物を引きでとらえた(映画でいうところのフルショット~ロングショット)とき人物よりもはるかに大きな面積を使って描かれたりすることがある。

 

 例えば、「夜明け前」ではラスト近く、出産の話の直後に挿入される1ページの景色はページ左上からさしこんだ光がビルを照らし始めているビル街を映画いたものである。これは、具体的にどこの景色なのかそれはわからなかったが、その平凡で美しい景色は夜明けの空気のにおいや光の淡さを喚起させる。

 

 同じように、「日曜、午後、六時半。」で2、3ページの見開きの景色も画面の奥からさしこむ光にまちが照らされ始めているような感覚が景色は、写真を取り込んできたのではないかとはっきりわかるほどの画像であり、右手前にいるこの漫画の父親が浮いて見えるほどだが、やはり個別性よりも抽象性がまさり、家が山間部に囲まれている点から田舎の静かな、しかしものさみしい雰囲気が、細部を見れば見るほど喚起されていく。このようにある種の抽象性から読者の記憶の中の感覚を喚起するのである。このように、2次元にあるはずの景色はその細部の細かさと全体の抽象性から3次元の視覚や視覚以外の五感で感じられる感覚が喚起され、その喚起されるときの感覚こそリアルといえるだろう。

 

 

 また、景色が物語を喚起することもある。アルファルファ」では、冒頭少女たちが歩く後ろにある田んぼの平らかさ、縦に伸びるのが、鉄塔や奥にそびえる山しかないという景色とその直後にナレーション「僕の村には高速道路が走っている」の後ろにある高速道路の下に広がる田んぼ、高速道路よりも高い建物のない平らかに伸びていくだけの景色が、この主人公の住む場所の上を通り過ぎられていくだけの存在であることを喚起させ、その後の自由を求めラストでは出奔するヒロイン「大沢」の像を担保していく。マンガでの次元のリアルを支えているといえるだろう。

 

 景色は、その抽象性から様々なものの喚起を促し、リアルへとつながっていた。一方、具体性の挿入によって様々なものを喚起されるということもある。それが、固有の事件、事象等の挿入である。

 例えば、「日曜、午後、六時半。」の「③帰宅」での裏切り続けられた人生だという父親の回想の中の一コマが挙げられる。そのコマまでに家族・社会・会社に裏切られてきたことがわかるが、最後に会社の仲間と何かを見上げるコマがあり、ページをめくると約半ページのコマで父親の後頭部の奥に煙を上げるビルと奥のビルに追突せんとする飛行機が描かれている。その光景は、多くの人がその行く末を生中継で見たであろうアメリ同時多発テロの一幕、アメリカ経済・資本主義の象徴だったワールド・トレード・センタービルに飛行機が追突したシーンであることが明白である。その時のナレーションは「世界に裏切られ―――」は、当時”世界の警察”を自称し、名実ともに世界のトップにいたアメリカ本土や世界の経済を牛耳りつつあった資本主義の象徴のビルが崩れていく姿にリアルに感じられた感情のひとつだろう。そのため、ここでは固有の事件等=具体性の挿入によってその感覚を二次元を超えて喚起しているという点でリアルなのである。

 また、このほかにも「休日の過ごし方」では「吉祥寺駅」という固有の駅名が登場し、同じようなリアルが発生している。

 

 以上のように、浅野の作品はマンガという主に二次元から三次元に「感覚をよび起させる」=「感覚の喚起」をおこなうものであった。この喚起性こそがリアルでありリアルをよび起しているといえる。しかし、これだけではなく、浅野のマンガは、物理的な世界と感覚的な世界が遊離(マンガという媒体における表現の非現実性と、そこから知覚される現実性の乖離)をも告発している。それは、私たちの誰もが主体性をもつ(ニュートラルな存在であることができない)限り、感じる遊離であるため、これもリアルな感覚だといえるだろう。このことについて、次項にて分析する。

 

 

全体:特別な“区切り”を否定、物理/感覚の乖離の告発

 浅野の作品では、世界(あるいは人生が)が本質的には更新されるだけで“区切り”など持たないことを示すように*1おあつらえ向きの決定的な区切り*2が極端に大きく扱われず、時には排除される。これは先述の短編集に収録される「夜明け前」に象徴的にあらわれている。まず、その最初のページを見ていく。

 

 「夜明け前」は、時計のアップのコマから始まる。電子の時計が示すのは「11:59」59秒。直後にビル街の夜景の遠景ショットのコマが次に挿入されると、先ほどの時計のアップが二つ続き、表示はそれぞれ「00:00」01秒、「00:00」02秒である。

  ここまでみると時計の表示が「00:00」00秒が夜景ショットに変換されているだけで、(時計が徐々に時間の表示に向かってアップとなり、画面に若干の緊張感があるにもかかわらず)この1ページではただ時間が(1秒ごとという大抵の時計という装置で可視化できる最小の単位で)更新されているだけであることがわかる。また、このとき11:59から00:00へ日にちがまたがっていることに注目し、これは年がまたがるときの(人々の気分が高揚するような特別な)“区切り”を表していたのではないかとも考えられるが、そのような特別な“区切り”ではない。時計のアップの下部には日にちの表示が半分ほど見えており、その表示が「1/24」と「1/25」であることが読み取れるからである。ここでは、物理的な時間の更新が淡々と示されているだけで、特別な“区切り”が避けられていることがわかる。*3

 

  以上のような導入から、「AM00:45」から「AM6:45」まで、時刻が示された後に10個の物語が描かれていく。この先頭の「AM00:45」で知り合いのカップルの喧嘩の仲裁に駆り出された会社員の男と、3つ目の「AM2:26」で女子中学生の自殺ライヴを見ていた(ベストセラー)作家の男、その配信された動画に映っていた女子中学生が後半に再び登場する。女子中学生は、ナレーションのことば=作家の男によるネット上への書き込み によって自殺を思いとどまったようで、「AM6:45」では自殺という非日常的な行為とは真逆のゴミだしに出かけようとする場面が描かれる。

  彼女は胸元から映され(このときパジャマの柄で女子中学生が「リアル」な形で読者に喚起される)、その直後その上半身の背後の右側のみが映るがこのとき目の前には先頭の話で出てきた会社員の男が立っている(次ページの冒頭のコマを見るとアパートなのかマンションなのかの隣同士であったことがわかる)。唯一ここが10個の物語の登場人物が直接出会う場面となっているが、ここで女子中学生が出会った相手が自分を励ました作家の男ではないところにこの瞬間がある種の奇跡の瞬間(≒特別な“区切り”)を避けている態度がわかる。*4

 

  このような特別な“区切り”が避けられているのは、同作者の『おやすみプンプン』でも同様だ。『おやすみプンプン』ではその後半に主人公の「プンプン」とヒロインの「木村愛子」が愛子の母親を殺害するという決定的な出来事が起こる。二人は逃避行で鹿児島へと向かっていくが、テレビで警察の捜査のほどが少し伝えられているだけで刑事が登場して追う/追われるというサスペンスは避けられる。

 「プンプン」は殺人未遂または、暴行・傷害罪など実際に犯罪をしているが、そこが深く扱われることがない。愛子が自殺したのち、入院した「プンプン」のもとに警察が来るが、横になる「プンプン」からの視点で仰角から捜査員が二人とらえられた後、名前を問われるがプンプンの口のアップと吹き出しの「僕の名前は……」というところで終わっていて、その結果「プンプン」がなんらかの罪を負ったことも描かれず、尋問に対する反応も涙をながす「南条幸」が描かれるだけであり、ラストまで「プンプン」の日常が続いていく。このように、決定的な出来事が起こってもそれが特別な“区切り”とならないのである。

 

 このように、特別な“区切り”の否定は、“何があっても人生はすすみ、世界(地球)は規則的に回る”というような感覚に根差している。これは、人間が自分の主体性のフィルターを人が気分によって時間に関する感覚が物理的には同じ長さでも全く変化したり、だまし絵に代表されるように物理的なものを正しく知覚できなかったりという感覚というようなもので、大きく言うと、この感覚は物理的なものと感覚的なものが乖離していること根本的なリアルに接近している。さらにそれは、マンガの読者のリアルでもあるのだ。マンガの読み手は、物理的には人間とは違う二次元のものを人間と知覚しているからだ。

 

 

 

 

*1: 仏教の無常観や「万物は流転する」とした古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスなどに見られる考え方である。

*2:例えば、結婚や「運命の人」との交際、出会い、死、犯罪、事故のように一般的に人の人生に大きな影響を与えると思われるもの。

*3:同じような導入に同短編集「17」がある。

*4:同じような構成では『21グラム』(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督、米、2003年)という映画がある。しかし、この映画も特別な“区切り”をもち、物語は収斂していく。具体的に言うと、はじめばらばらに見えた3人の人物やパズルのピースのように散らばった時系列の映像群が「事故」と「復讐」という特別な“区切り”によって収斂していく。