柔らかで優しい世界の中で~『ひまわりの約束』【ドラ泣き】
邦楽界で最も語られた「花」といえば、桜なんじゃないかと思っていた。でも、『水曜日のダウンタウン』で曲数をいえば、桜よりもひまわりの方が多いという事実を知り非常に驚いた。そこで今回の原稿を思いついた。
盛夏の候。ひまわりが咲き誇ってくるだろうこの時期だからこそ、分析したい曲がある。秦基博の『ひまわりの約束』だ。
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『ひまわりの約束』といえば、2014年に公開された『STAND BY ME ドラえもん』(山崎貴・八木竜一監督)の主題歌として話題となった秦基博の代表曲のひとつだ。映画・曲ともに大きな話題を呼んだ。それは、ドラえもんの“柔らかくて優しい世界観”にマッチしているであったからだろう。
本原稿では、その世界観を支えた主として歌詞における「視点の曖昧さ」と「淡い表現」という効果について書いていきたいと思う。
ドラえもん/のび太;「視点の曖昧さ」
『STAND BY ME ドラえもん』の主題歌であったこともあり、歌詞中の「僕」と「君」がどうしてもドラえもんとのび太にオーバーラップしてしまう。しかしそうすると、視点の主が非常にぼんやりと「曖昧」であることがわかる。冒頭、Aメロを見てみよう。
どうして君が泣くの まだ僕も泣いていないのに
自分より 悲しむから つらいのがどっちかわからくなるよ
この部分を見ると、なんとなくだが、「僕」=のび太/「君」=ドラえもんにみえる。主体的に「つらい」経験をしているのは、『ドラえもん』のなかでジャイアンにいじめられる通常回、「台風のフー子」の話などのび太のイメージが強いし、(『STAND BY ME ドラえもん』でもエピソードでとり上げられた有名エピソード)「帰ってきたドラえもん」では未来に帰るドラえもんを想い一人で立ち向かいボコボコにされながら(つらい思いをする)も、それをのぞき見、のび太の思いを知ったドラえもんのほうが先に涙する。このシーンに比例したようなこの歌詞は、「僕」=のび太/「君」=ドラえもんがその逆よりも合っているような気がする。
ただ、二番のサビを見ると、その視点はぼんやりしていく。
そばにいること なにげないこの瞬間も 忘れはしないよ
旅立ちの日手を振る時 笑顔でいられるように
ひまわりのような まっすぐなその優しさを 温もりを全部
返したいけれど 君のことだから もう充分だよって きっと言うかな
「旅立ちの日手を振る時」と別れを意識していること、離れていく主体性があること、「僕」=ドラえもん/「君」=のび太のような感じがある。ドラえもんには正式な最終回はないが、ドラえもんとのび太が分かれるのは、どうやらドラえもんが未来に帰る時のようである(「さよならドラえもん」、「帰ってきたドラえもん」より)。ただ、「ひまわりのような まっすぐなその優しさを 温もりを 全部返したいけれど 君のことだから もう充分だよって きっと言うかな」というのは「僕」=のび太/「君」=ドラえもんというニュアンスもともる。
「ガラクタだったはずの今日が ふたりなら 宝物になる」(一番Bメロ)、「遠くで ともる未来 もしも 僕らが離れても」(二番Bメロ)のなかに、『ドラえもん』のニュアンスをともしながらも、「君」と「僕」はドラえもん/のび太、両方の視点のどちらにも適応できそうで、どちらにも適応しきらない。そこには、両方の視点が入っているようで心地よく曖昧だ。
そう、この曲の視点は曖昧。見方によって、友情にも愛情にも親子の情にも感じられるような「抽象さ」をもっている。普遍的で“抱擁されるようなあたたかさ”がある。それぞれがそれぞれに「僕」と「君」を受け入れる度量がこの曲にはある。そしてそれは、この曲の「淡さ」に関係している。
余韻;淡い表現
前奏のあたたかなギターのリフが、完全にカットされず余韻が残されるように、秦基博の歌唱も小節ごとにピタッと止めるわけでもなく、少しだけ伸ばされて心地よい余韻を残す。“白黒つけなくてもいいよ”という「淡さ」は、先ほどみてきた歌詞の視点の曖昧さだけではなく、音の上でも達成されている。
だからこそ、この歌詞に出てくる「ひまわり」は、太陽の強い光を浴びたビビットな黄色ではなく、「淡い光」を浴びた柔らかで滲んだ柔らかい黄色を思わせる。実際、PVの世界観の「色」はすべて「淡い」。
ひまわりを「淡く」表現したのがこの曲の革新だったのかもしれない。ひまわりは、その花を太陽に向けて堂々と向けているために、“不屈で凛として純情で”という「強い」(「濃い」)イメージが一般的だからだ。例えば、遊助の「ひまわり」(2009年、遊助は上地雄輔の別名義)をみてみよう。
冒頭サビの「青い空と雲 太陽をつかまえんぞ」というまっすぐなメッセージと遊助の芯の強い声が、この曲の推進力を呼び込むとともに「太陽―ひまわり」の強くて濃いつながりを示す。ひまわりは“不屈のイメージ”を持って二度登場する。
涙が こぼれ落ちても
うつむかないで
さぁ 手を繋いだら
また一緒に歩こうか
俺らは 笑顔の ひまわりさ!
辛いことがあったなら
深呼吸してごらん
泣き虫のひまわり
またいつもの笑顔で
上向いて 胸張って 飛べるから!
この曲は、言うなれば、太陽―笑顔―ひまわりを(遊助自体のもつまっすぐでポジティブなイメージと合わせて)連関させて「応援歌」を形成している。いままでのビビットでまっすぐ上を向くひまわりがここにはある。対して『ひまわりの約束』ではどうだったか、もう一度確認してみよう。一番のサビ部分を見ていこう。
そばにいたいよ 君のために出来ることが
僕にあるかな
いつも君に ずっと君に
笑っていてほしくて
ひまわりのような まっすぐなその優しさを
温もりを 全部
これからは僕も 届けていきたい
ここにある幸せに 気づいたから
ひまわりは、直接「笑顔」に結びつくのではなく、(「いつも君に ずっと君に 笑っていてほしくて」は願望形をとる)、「優しさ」や「温もり」に結びつく。だから、「ひまわり」は温くて優しい「淡さ」を持っている。だから、この曲は推進力(→;応援歌的な前に進むベクトル)ではなく、ゆったりとした包容力(⊂;AがBに含まれるというような包含関係)を示すのだ。それは、ひまわりが灼熱の太陽に照らされているのではなく、まるでほんわかした太陽に見守られているようにも見え、優しいのは、「ひまわり」だけでなく、その視線の先にあるであろう「太陽」をも示すのではないかと思わされる。
ひまわりと太陽;柔らかくて優しい世界観
そう考えると、「僕」と「君」は「太陽」と「ひまわり」なのではないかとさえ、おもってしまう。この曲は、少し視点が変わることで世界が「柔らかくて優しい」ことに気が付き、そのことを主人公が「柔らかくて優しい」気持ちで返していこうとするのが主とする(一番Bメロ「ガラクタだったはずの今日が ふたりなら 宝物になる」と先述の一番サビ参照)。
「僕」と「君」は「ひまわり」と「太陽」くらい違うけれど(二番Bメロ「ちぐはぐだったはずの歩幅」)、そばにいて、感情が相互作用的で、いつか離れてしまっても希望的なのだ(二番Aメロ「それぞれ歩いていく その先で また 出会えると信じて」)。
この曲は、その端々まで「柔らかくて優しい」。ドラ泣きしてしまうような『ドラえもん』のエピソードの様に。人間の原体験にあるような柔らかで優しい気持ちを、「ひまわり」という花に仮託して表現したこの曲は、この先何年も、人々の心にじんわりと温かくなるような感情を呼び起こしてくれるのではないだろうか。
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以上が、『ひまわりの約束』の魅力分析でした。いかがでしたでしょうか。
私は、人生の中で映画において「感動して涙した」という経験は、『ドラえもん』の『おばあちゃんの思い出』だけなのです(オイオイ、ドライすぎるだろ)。小学生のときでした。この曲は、そのときに感じた温かく優しい気持ちを呼び起こさせてくれる気がします。
皆様、ドラ泣きはしたことがあるでしょうか?みなさまのドラ泣き体験談聞いてみたいです。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございました。