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院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【ネット時代】「共有」「共感」への希求【試論】

現代人は「承認欲求」が高いのか。

若者を語るときによくキーワードとなり、ネット文化そのものを象徴する「承認欲求」。事実、もと指導教員から「今の子は承認欲求が、つよいよね」といわれたことがある。

 

承認欲求とは他人から認められたいという欲求のことをいうらしい。上の世代からすれば、SNSに「自分」を表記しようとする若者の姿はたしかに「承認欲求」そのものにみえるかもしれない。

 

しかしながら、一部の作品や、ネット上の活動をみれば、承認欲求とはすこし異なる欲望のかたちがみえてくる。それが、「共有」や「共感」への希求だ。

 

 

「共有」という名の増殖運動

絶対的な価値はとうにない。それが平成だった。平成期になって重視されたのは、自由と個性だ。それは個人の「選択」を推奨する一方、強固なライフスタイルを崩壊させた。

昭和的な人生設計は、ハードへの疑いとともにくずれかけ、自由という名の責任のもとにその価値をさぐらなくてはなくなった。サルトルは役割がきまっていない自由の苦しさを論じたが、それは平成期の若者の葛藤に似ていたのかもしれない。

 

そのような風潮は、「なにがふつうなのか」「なにが正しいのか」ということに対する不安をうんだ。そこで、若者が希求したのが「共有」という運動だ。

 

「共有」はそれがすすめばすすむほど、おなじ考えがクラウド上に増殖する。それが共有の運動だが、これは「なにがふつうなのか」「正しいのか」ということが曖昧になり、なんらか絶対的な基準をもてなくなった若者にとって増殖する情報は指標となるのだ。

 

つまり、「わたしがここにいることを認めてほしい」という積極的突出への欲求よりも、「このままでいていいと認めてほしい」という消極的突出への欲求がつよいのではないだらうか。

 

「共感」への羨望と「非共感」の恐怖

2017年に相次いで公開されたのは「非共感」への恐怖を描いた映画だった。『ハッピーエンド』(ミヒャエル・ハネケ監督)は、少女の始点の残酷なスマホ映像を冒頭にすえ、結局だれともわかりあわずに不気味である少女の顛末を淡々とえがいた。また『LOVELESS』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督)は、母親という存在でさえ、じつは曖昧であり息子の消滅という状況に最後まで「非共感」な母親を描いた。

 

それぞれが「選択」できるはずなのに、「非共感」は恐怖だ。逸脱や理解不能なことは相変わらず「恐怖」で「不気味」である。逆にいえば、不感からくるいちじるしいマナー違反は、その恐怖の結晶としてとらえられようか。ここに現代の若者にある矛盾がある。

 

逆にいえば共感は最大の安定剤だ。かたちや方法がちがっても根本で「共感」していたい。おそらくこのような思考がこれからの文化においてはテーマになるような気がする。引き続き思考したい。