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院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

撞着と「はかなさ」、痛み ―スピッツ「楓」:前編

 実は、数年前からブログを書くことに対して憧れがありました。しかし、なかなか実現できず、その勇気を持てたのは最近のことです。そのとき、ちょっとだけ書いていた文章がありまして、それをこの間何かの拍子に発見したのです。ということで今日、挙げるのは二年前の文章となります。あまりにも年代合わないところは直しました。いつもとは少し文体等違うかもしれませんが、ご容赦くださいませ…。

 あっ、ちなみになのですが、話が長い私ですので、今回もまさかの一曲に対して全編後編としました。うーむ、短くカッコのいい文章を書きたいものです…涙。

 

 

 

……

 

 

多様な解釈を惹きつける、歌詞

 上白石萌歌がCMで歌っていた曲を何度もリピートしていた、2年前。音楽音痴の私はすぐに気が付かなかったが、1998年にリリースされたスピッツの代表曲、「楓」らしい。2年前どころか20年前の曲にも関わらず、どこか新しさを感じさせるこの曲の魅力に取りつかれ、かれこれ1日10回の病的ともいえるペースできいてしまっていた。

 この曲の魅力に憑りつかれているのは、もちろん、筆者だけではない。ちょっと、ググれば、多くのサイトがこの曲について取り上げているのがわかる。歌詞の解釈が多いうえに様々でおもしろい。この曲の魅力は、心地よい「謎」にあるのか。一応、公式のPVをのせておく。

 


スピッツ / 楓

 

 どうだろう。むずかしい言葉などひとつもないはずなのに、具体的にどんなことが語られているのか、はっきりはわからないのではないだろうか。言い換えれば、平易な表現のなのに、わかりやすくない。そのことは、意味を知りたい!(=解釈をしたい)という欲求を、喚起しているようだ。実際、この曲については、恋人と死別して最後には、主人公も自殺する曲、恋人と死別した主人公の精神的な不安定さを示した曲、死の恐怖を乗り越えるために性を歌った曲など、多様に「読まれて」いる。中には、ハイデガーの『存在と時間』と絡めているものまであった。

 

 

 そう、この歌詞は、心地よい「謎」をもっているのである。この点について、自身もアーティストで、大学の教授も務める谷村新司が、『関ジャム』という番組で言及していた。

 

 詞を見て、「楓」というタイトルをみておかしいと思ったことはありませんか。〔…〕タイトルは「楓」なんですけれども、歌詞の中に具体的に楓は一切出てこない。なんだけど、全体の曲を聞くと、ああ「楓」だって。〔…〕「風が吹いて飛ばされそうな」っていうところで、やっと風が出てくるんですけど、ここに唯一「楓」の気配、うっすら出てくるというか。だから、その、このタイトルと詞の世界のこの距離感。このすごさっていうのは、スピッツならでは。〔…〕だから、みんなが、いろんな説でてくるじゃないですか。これってもしかしてなになにかもしれない。例えば、そういう懐、これがこの作り方の一番のパワー。〔…〕多分、ネットとかでいろんな説が出ている。どんな風にでもイメージが広がって、解釈もできるっていうすごさっていうか、それはやっぱり、スピッツの草野さんの世界だと思うんです。

――『関ジャム』(2017年2月12日放送)より書き起こし。そのため、表記は筆者によるものなので、注意。この回でも出演者の錦戸亮から、「楓」は「君」の名前なのではないかという説がでていた。

 

 

 タイトル「楓」と歌詞の世界の「距離」に注目して、多くの解釈を惹きつけることが言及されている。たしかに、「楓」は歌詞に登場しないし、歌詞とのかかわりも不透明だ。ただ、歌詞の内部、ボーカル・草野マサムネの声、メロディという他の要素を合わせたとき、よりこの曲の心地よい「謎」の本質に近づけるのではないだろうか。

 

「柔らかさ」/「死」

 この曲を一度聞いたとき、あるいは深く考えずに聞いているとき、そのメロディラインの柔らかさを感じる。残念ながら、筆者は上記のように音楽音痴であり、楽譜も読めないため、その柔らかさを音楽的に証明できない。しかし、その雰囲気は、歌詞にも反映されている。それは、“丸いもの”の散在によって引き起こされている。「小さく丸くなっていたこと」、「穴」、「水玉」、「タマシイ」…。角の取れた丸いもの、それは、ひとつひとつの表現における平易さ、メロディの雰囲気、さらに、草野のところどころ舌足らずな声に反映され、全体に柔らかい触感をもたらす。

 

 「君」とのエピソードも柔らかい。「いたずらなやりとり」、「心のトゲさえも 君が笑えばもう 小さく丸くなっていたこと」、「呼び合う名前がこだまし」…。甘くて、平凡な(この曲でくりかえされる「歩く」という表現の日常性に似ている)恋愛を思わせる表現だ。

 

 しかし、この曲には、先ほど紹介したように「恋人と死別した曲」であるとよく解釈されている。はっきりと言明されていないのに、である。それは、「柔らかさ」とは、真逆なものが同居している状態からくる。「死」だ。「死」の匂いもまた、しみついてはなれない。もちろん、それは、「さよなら」という言葉、「軽いタマシイ」、「けど」「のに」で結ばれるかなえられなかった願望たちの表現からも来るものだろう。「僕」と「君」の距離のもつ中間性、さらには、この曲のもつ聴覚の優位とも関連する

 

  (さらに、「性」の感覚もあるだろう。それは、「穴」や「抱く」、「届く」というフレーズや、「死」の匂いから来るものだ。バタイユが、『嵐が丘』の分析で指摘しているように、「性」=生への運動は、「死」を想定しているという逆説がある。つまり、「性」には「死」と撞着的に存在するものなのだ。)

 

 

 このような柔らかさと死の混在状態のなかからどのような効果が生まれるのか、そのことについては次回、後編にて分析する。

 

つづき↓↓

 

caaatteey-0815.hatenablog.com