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「アイロニー」式表現方法~cheep sweets駄菓子を例に~

 

 「ちょぴまるさんは暑さにも負けず、ブログを更新してて偉いですね(笑)」

と、いまの自分に言われたらどきっとしつつも、こりゃアイロニーだなと思ってしまうでしょう。はい。暑さに負けてブログ小休止してました筆者の言い訳からスタートしましたが、「アイロニー」って実生活でも、表現のなかでよく耳にするのではないでしょうか。でも、もう少し考えるとちょっと不思議なのです。アイロニーは人を不快にさせるだけではなく、にやりと笑わせる効果まであるのですから(ただのいやみではないということ)。そんな不思議なアイロニー的表現について先行研究に触れつつ、最終的にはその表現法が巧みに使われているYouTube上のアニメについて書いていきたいと思います!

 

 

 

アイロニーはどのように研究されてきたのか

 実は、皮肉=アイロニーについてはかなり言及されているものが多く、それをすべて紹介するのは難しい。学者たちの頭を悩ませる定義のむずかしい概念のようだ。以下にはいくつかの説を書いていきたい。

 

1.辞書的意味

kotobank.jp

 とても簡潔に言えば、アイロニーは”皮肉、あるいは反語”という意味で紹介されていることが多いようだ。“反”語と言っているように、「反対概念を意味する」(ニッポニカ)や「反対の意味」(岩波辞書第4版)など、もとの「ことば」そのものがもつ意味にたいしてその反対の意味が読み取れる表現法とも読み取れる。

 

 

2.アイロニー=反対の意味への疑問

 1でとり上げた辞書的な意味合いへの疑問は当然のごとく打ち立てられた。これをわかりやすくまとめているのは、辻大介氏による「アイロニーのコミュニケーション論」*1という論文だ。

 

 辻氏によると、反対の意味についての疑問は以下の四点で考えられるという。

 ①《本質》

 ②《効果》

 ③《非対称性》

 ④《明言による失効》

 

 ①《本質》は、「文面とは反対の意味のというものが考えにくアイロニー表現がある」というアイロニーの本質が意味の反対では成り立たないということの定義不可能についての指摘だ(同論P92)。例としては「私の大切な花瓶を壊してくれて、本当にありがとう」(同論P92)が挙げられ、その「ありがとう」が単純に「ありがたくない」のような反対の意味と結びつかないことを指摘している。

 

 ②《効果》は、「直截的な(文字通りの意味を伝える)表現よりも強いインパクトをもたらしうる」(同論P92)のため、反対の意味以上の作用があるという指摘である。たしかに、実感的にもただ「なんか太ったね」といわれるよりも、「あらやせたんじゃない(笑)」とか言われた方が腹は立つかもしれない。個人差はあるけれども。

 

 ③《非対称》は、アイロニー表現が「専らネガティブな内容・印象を聞き手につたえるものである」(同論P92)であり、ポジティブな表現でネガティブな意味を相手にもたらすことがあっても、その逆はないというしてきだ。「反対の意味」ならポジティブ⇔ネガティブという双方向の関係がみられるはずだが、実際にはポジティブ⇒ネガティブという一方的なものだ。

 

 ④《明言による失効》は「アイロニーには、それがアイロニーであることが明言されると効果が失われる」(同論P92)という性質のことを指すらしい。アイロニーがそのような「効果をあげるためには暗示的(implicit)でならなくてはならない」(同論P93)。

 

  この疑問点は、それ自体が「アイロニー」という形式のもつ特異な状況をしめしているようだ。さらにみていくことにする。

 

 

3.アイロニーの定義への挑戦

 さて、辞書的な意味は包括的あるいは厳密な定義としては疑問があることは疑いがないらしい。では、研究によってどのような解釈の提案がなされているのだろうか。

 

3.1. 発話者という視点

 あらたな、定義のために取り入れるためにまず挿入される視点は「発話者」という主観的なものだ。林田三重氏・高橋知音氏による「アイロニー研究の現状と展望」*2において「近年多くの研究者が」扱っているというのは、Kumon-Nakamura, Glucksberg, & Brownによる「ほのめかし理論」だという。あるいは、2.でとりあげさせていただいた辻氏の定義においてみられるのは発話者がもつ「意図」や「主観」にかかわるものだ。

 

・「ほのめかし理論」=「アイロニーは成立しなかった期待に婉曲的に言及しつつ、発話行為の適切性条件を違反している表現」(林田氏、高橋氏同論P90)

・「アイロニーの《本質》は、“意図された不適切言語行為”」(辻氏同論P117)

 

3.2.発話者の主観+解釈者の主体

 当然、アイロニーも相手に伝わって初めて成立するともいえるかもしれない。つまり、受け取り手の問題が加えられた論もある。岡本雄史氏の「アイロニー発話の認知的分析 : 発話理解とコミュニケーションの統合モデルに向けて」*3*4では以下のように述べられている。

 

アイロニー発話は、その生成と理解において発話者と解釈者の認知作用の両方に関わっており、またその結果認知された逸脱の責任主体を要求する言語現象であるがゆえに、対人的な指向性も顕著であると考えられる。

――岡本氏、同論P117

 

 発言者と受け取り手という相互の項が関係するということを考えると、月並みながら夏目漱石の『こころ』が思いついてしまう。なぜか小学生のとき、これを読んだ著者にとって【ここから『こころ』のネタバレに一部踏み込みます!】、「K」が他人を愚弄する口癖=「精神的に向上心のない者はばかだ」を彼自身にむけた「先生」=「私」のアイロニーは強烈だった。言う側の意図、その言葉がもつ字義以上のネガティブな意味を生む構造。それが解釈されるという認知上の過程を経てそれが成立する、というのがアイロニーなのかもしれない。

 

 

アイロニー式表現方法~cheap sweets駄菓子の「アニメ」における笑い

アイロニーが「笑い」になること

 アイロニーは嫌味のような「不快」な表現であるとともに、「笑い」や風刺となることもある。おそらくそれは、表現の程度の問題や対象(解釈者へ)の具体性も問題なのではないだろうか。程度はそれが強すぎると単なる愚弄になるだろう。おそらく最近の某女優さんのTwitterなどは程度が強すぎたのではないだろうか。あるいは、対象者の具体性でいえば、さきほどの『こころ』は「K」という具体的な対象へ向けられたものだが、その解釈者が抽象的にぼかされているとその意味は少し柔らかくなるだろう。

 

 そのようなむずかしいバランスと、字義、あるいは表現されているものの意味合いが通じる相手がどれほどいるのかという不確定状況の積み重ねによって、表現者の意図(=皮肉)が伝わりはじめてアイロニー的な表現が存在するのだが、それをYouTube上でみられるのが、cheap swees駄菓子のアニメだろう。

 

 

cheap sweets駄菓子とアイロニーな笑いー「清い行為」の多義性ー

 このチャンネルのアニメには「清い行為」が多義的になってしまうという「アイロニーな笑い」がある。

www.youtube.com

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 「仏」というかなりなじみの強い“聖者”がなんの予告もなく突然日常にあらわれるというシュールさがある。あきらかに、見た目が作画的にもリアルな「仏」にもかかわらず「コンビニ仏」では、コンビニの制服まできており、名札には「るしゃな」と書いてある。細部に見える仏や仏教への知識の細かさは、表現する側の「意図」も感じさせる。

 両作品とも“聖者”らしく能力を発揮する。「自動販売機」では、男性が落としたお金を白毫(額の点)によって照らし、「コンビニ仏」では、バーコードを読み込める。このとき、解釈者はみているものすべてになる。対象は、このアニメくらいでは威光が揺らがないであろう「仏」だ。存在が偉大あるいは著名すぎる場合、対象はより抽象的になる。

 さらに、この両作品は「清い行為」を多義的にしてアイロニカルになる。「自動販売機」では「お賽銭」、「コンビニ仏」では「寄付」が「仏」が“能力”、あるいは”視線”によって導かれる。このとき、主人公の男性や女性の行為は善意か、仏の「ありがたさ」か「強制されたもの」か非常にあいまいになる。行動自体が善意やありがたさというもともとの意味合いが強制されたものというほかの意味合いの可能性もふやしアイロニカルになるのだろう。

 

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聖☆おにいさん』にも関連するかもしれない。↓↓

 

聖☆おにいさん(1) (モーニングコミックス)

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*1:東京大学社会情報研究所紀要』第55号,P90~P127;以下のURLで閲覧可能 http://d-tsuji.com/paper/p04/paper04.pdf

*2:信州大学教育学部紀要No.110』P89-98、2004年

*3:京都大学、博士論文、2003年

*4:リンク:http://implicature.net/pdf/okamoto_phd-thesis.pdf