猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【メモ】YouTubeの「笑い」テレビの「笑い」

  最近、大型の記事を書けなくて申し訳ございません…🙇

  ただ、おもいつくと書いてしまう性分でして、今日もまた思いつきブログを書いていこうと思います😣

  私の大学では多くの学生が映像などについて研究してきました。そこでよく見られた分析に「笑い」というテーマがあります。私の師匠格の教員も「漫才」について研究、分析していました。

 

  ただ、たいてい漫才やコント、あるいはコメディ映画の分析がほとんどで、概念はすごーく難しい哲学だったと記憶します。あるいは、文化によってもなにを「笑う」かは大きく違うようです。

  現代の日本でと限定すれば、多くの若者はテレビの「笑い」から少しずつ離れ、YouTubeの「笑い」へと移行しつつあると思われます。さて、その二つは似て非なるものだと個人的には感じています。今日はこのテーマについて分析いたします。

 

供与される「笑い」と親近感

  テレビが全盛の時代。「笑い」は供与されるものだった。コントも漫才もその他バラエティもプロの芸人が与えてくれるものだった。「芸人」から「視聴者」へ。前者と後者の立場は揺るぎない。

  しかし、親近感とは「笑い」を喚起させるのに必要だったのは間違いない。漫才からコントへ、バラエティという企画ものからしゃべり(ひな壇)へ。漫才という視聴者がまったく参加できないものから、視聴者も「できそうな」バラエティへと推移していった。

 

  なぜ、笑いは「親近感」が大切なのか。それは、「笑い」が「わかっているか」ではなく「起きるのか」という原理に関わっている。研究室でよくこんな会話を聞いた。

 

  Aくん:「今年のM1見た?」

  Bさん:「見たよー!私はオードリーが一番だとおもったけど…」

  Aくん:「でも、お笑いを知ってる僕からすると、NON STYLEが勝つのが当然なんだよ。技術があるし、うまいから。」

 

  M1、R1、キングオブコントはたしかにコンテストなので、多少の上手い/下手という価値観があるのは仕方ないが、一方で多くの人はBさんのような価値観―笑えるか、笑えないかという存在論的な見方―で判断することが多いと思う。

 笑いはそうした主観にいかに寄り添えるか=「親近感」を課題にし、テレビは年代をくだるにつれて、その「親近感」をもとめて変質してきた。そして、その先にあるのがYouTubeの「笑い」だ。

 

 

YouTubeの「笑い」=共有される「笑い」

  YouTubeにある空間は、そのほとんどが特別ではない。かれらの「日常」の空間が撮影空間だ。テレビの大道具さん、美術さん、小道具さんらがつくるプロの空間ではなく、あるいは綿密なロケハンがされることも少ない。彼らは日常の楽しい瞬間、空間を切り取り「共有」する。

 

  それは、「親近感」の観点からいえば、まさに革命的だった。そこで行われる検証・実験・ドッキリといったものなのはそれをさらに支持した。彼らは日常に根差した感覚の疑問などを「共有」するのだ。だからこそ、YouTubeが「笑い」の媒体として発展したのも無理はない。テレビがどうしてもたどりつけない「親近感」の向こう側を発掘したからだ。

 

  そのことは、ゲーム実況の分野でもいえる。ゲーム実況はゲーム画面を「共有」し、リスナーはゲームをしたかのような錯覚に陥る。場合によってはリスナーがそのゲームをプレイしたいという欲望にかられる。まさにYouTubeは「共有」のメディアであり、その楽しさや「笑い」がやりとりされているかということがわかるだろう…。

 

  YouTubeの先にはどのような媒体のどのような「親近感」による「笑い」がもたらされるのか。たのしみでならないが、おそらくその一つの形がすでにYouTubeにはあらわれている。それが360°回転する画面だ(例:アバンティーズより「youと恋する360°」)。自分が手でまわすと、見たいところが見えるVR方式だ。それと時間的な編集があわさったら…と思うとたのしみでならない。