猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

撞着と「はかなさ」、痛み ―スピッツ「楓」:後編

 この文章には前編があります!!

 よければ、それもチェックしてみてください!!

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

霊的な「君」-「僕」との距離、「聴覚」の優位

 この曲の「君」と「僕」は、独特な距離にある。サビで、「僕」は「君」に「さよなら」とつげる。サビの頭にくる「さよなら」というフレーズは、当然、大きく響き、身体的な距離の遠さ、別離がはっきりと示される。しかし、すぐに「君の声を 抱いて歩いていく」という歌詞が続く。「抱く」という、「性」をもイメージさせる、外部のものを内包しようとする動きは、「君の声」と「僕」の距離の近さを示す。「君」は、遠いようで近いところに置かれ、ふたりの距離は、中間的になる。この距離こそ、近さ―遠さの「撞着」(二項対立的なものが一緒にある状態)をしめし、「いっしょにいるけどいない」状況は、映画『ゴースト』に代表されるように、「死」のイメージ、あるいは切なさを引き出していく。

 同時に「君」はみえない「声」だけの存在となり、「死」のイメージがまとわりつく。霊的になるのだ。この曲において、「君」の情報は、「声」が優位だった。「声」は一番のサビ、最後に二度繰り返されるサビでリフレインし、この曲は「君の声を」というフレーズで占められていた。さらに、Cメロでは、「呼びある名前」の「こだまし」が「聴こえる?」と問う部分がある。名前は、普通に考えれば、「君」と「僕」のものだ。曲全体にながれるのは、音楽自体がそうであるように、「聴覚」的イメージの横溢なのである。

 一方、視覚情報は、秘匿性をもつ。「穴から」見えていたものは、「何」かわからない。「ガラスの向こうに」見えるのは、「水玉の雲」という、幻想的なものであり、不透明である。「君」については、たった一個所「笑えば」という部分における、笑顔のみの描写である。この曲自体も、「見えないけど、聴こえる」ものだろう。聴覚はたしかに視覚より優位だった。

 

 思えば、この曲のPVも聴覚の優位性を示してはいなかったか。公開されているPVは、以下のYouTubeからみられる。

 


スピッツ / 楓

 

 PVは、主に二つのパートからなる。一つは、3D眼鏡をかけるプラネタリウムを見るメンバーのパート、もう一つは、演奏するメンバーのパートである。このプラネタリウムに映し出されるものに注目してもらいたい。細胞のようなぐちゃぐちゃっとした不定形なものが、うごめいている。プラネタリウムに関連した星はおろか、「君」の存在も示唆されない。メンバーは、3D眼鏡を通じて、「みえているのにみえないもの」をみているのだろうか。一方で、演奏シーンでは、メンバーの演奏する姿が示され、音楽は途切れない。PVとしては、あたりまえの仕様だろうが、聴覚の優位はPVにもあらわれていた。

 

撞着と「はかなさ」、痛み

 以上のように、「柔らかさ」/「死」(あるいは「性」)、「いる」/「いない」という相反する状態が同居すること=撞着がこの曲を貫いていた。相反するものは当然、引っ張り合い、乖離を起こすことによって、揺れ動き、不安定となり、「はかなさ」をしめす。ボーカルの草野マサムネの細くて高い声は、両極から引っ張られてほそくぴんと張った糸のように緊張感を持ち、歌詞の内容と親和性があった。

 「楓」のイメージは、谷村新司が指摘したようにぼんやりしたものだ。それは、相反する者たちがその微妙なバランスを取ったときだけに現れる一瞬の閃光だ。だから、この曲は「よくわからない」のに「泣ける」のかもしれない。そのバランスが崩れやすいものだと知っているから。そう思えば無常観にもかかわるかもしれない。

 

 そして、その「はかなさ」は引き裂かれてしまうだろうから痛みを伴うのだ。いつかプチンと切れてしまう。青春時代や短い交際期間のように輝いているにもかかわらずすぐに終わってしまうから「痛い」のだ。

 不定形で曖昧な歌詞、はかない歌声から導き出される一瞬の状況。それが、この曲を聞くものに生々しい「痛み」を感じさせる。そのためにこの曲は曖昧さと明確さという矛盾した「謎」を持ち、求心力を持つのだろう。

 

 

……

2019年。100回目の朝ドラは『なつぞら』で、その主題歌はスピッツが担当した。いまだ、切ないかわらないその音が、北海道から発想されたものだということはとてもうれしい。