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院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【vimeo】『closet space』ーー映像の魔法はどこまで本物になれるのか

  春は思考力が鈍るかも…と個人的に感じてます。vimeoはその鈍った思考力にカツをいれてくれました。

 

 さて、映像は実は「本物っぽい偽物」ですね。幽霊なんてほんとはいないし、殺人が本当だったら警察が動くし、景色だって実はばらばらのところが勝手につなげられてるなんてことが多いです。以前、同じvimeoの「two devices connected」では《見えているものは本物か》というテーマを見てきましたが、今度は《映像の欺瞞=魔法はどこまで本物になれるのか》というテーマについて、2016年、vimeoに投稿された作品「closet space」を通してみていきたいと思います!

 

…ちなみにこの作品、3分でさらに英語(セリフ)もほとんどないので軽く見れちゃいます!ただし、ホラーが嫌な人にはちょっとキツイかも。

 

https://vimeo.com/ponysmasher/closetspace

 

 

 

 

【以下、ネタバレ注意!】

 

 

 

 

カットの魔法

  初期映画はただある映像が流れてるだけといっても過言ではなかった。そう、ワンカットだったから。それは垂れ流しと同じだった。いまでもワンカット映画はたびたびつくられているが、映画が物語を語ったり、エンターテイメントをとどけられるメディアとなったきっかけはカットが発見される時からだといっても過言ではないだろう。あり得ないものが、瞬時につなげられる。たとえば、鳩がいない空間が一瞬で鳩のいる空間につなげられれば、マジックが成立する。映像は魔法=欺瞞を得意としはじめた。

 

  カットをわることが重要なことは、サスペンスの神様と呼ばれたヒッチコックが身をもって知らせた。ヒッチコックは『ロープ』というワンシーン、ワンカット映画を撮ったものの、そのことがかえって編集の重要性を感じさせたと語る。

 

  実際、彼の代表作、『サイコ』では女性がバスルームで刺されるシーンで、カットと編集によって実際には刺さってないものを刺さっているように見せていた。カットは本当ならそこにはない「恐怖」まで、あるいは「サスペンス」という宙吊りの状態まで作り出した。

 

 

カットの間に潜む誤差

  「closet space」は日常のヒトコマの誤差からはじまる。

  主人公の女は、クローゼットにハンガーをかけ、その扉をしめる。ブンッという音。彼女が振り向くとカットがきられる。違和感を感じて女がクローゼットを開くと、ハンガーは二つに増えている。カットという切れ目によって数には誤差が生まれた。

  もう一度、扉をしめる。また、ブンッという音。扉をあける、カットの切れ目ハンガーは4つ。誤差。カットの切れ目の間に誤差が潜む。

  

  ここでは数があきらかに誤差を生むことで恐怖が生まれる。その数を目立たせるために、白いクローゼットの壁に対して黒のハンガーが採用されコントラストを生ませるという徹底ぶりでありそれはかなりコンサバな演出にみえた。

 

 

 

連続の中の誤差

  しかし、カットの切れ目の間に潜む誤差による比較的コンサバな恐怖演出はすぐに裏切られる。先程に続くシーン。

  訝しげな彼女の顔、ふたたび扉をしめて、カットなしに開ける。つまり連続のなかの一瞬にハンガーの数は誤差を起こす。これはどうやっているのだろう。非常に分かりにくいだけでカットがきられてるのか。それとも、開く前の一瞬でハンガーをかけているのか。

  どちらにせよ、ほとんど連続のなかに誤差が生まれた。それは、直後にもういちど扉をしめて、あけることがくりかえされハンガーが倍になることで強化される。

 

  もはや、映像はカットというしるしを限りなく薄めて魔法=欺瞞をより本物っぽくすることに成功した。これはもはや先進的ともいえるのではないか。

 

 

 

陰謀と裏切りーーうそっぽさと本物っぽさ

  主人公は、白目の人形でクローゼットの魔法を試し、それを夫とおもわれる人物に試させる。すこし、にやけた主人公の顔は何らかの陰謀を思わせる。この表情や感覚は、奇妙だ。なぜ、主人公は恐怖や緊張を感じないのか。

  しかし、夫は1人もいなくなる。これも誤差だ。画面は緊張感にあふれ、主人公もさすがにあせりはじめる。しかし、そこでなぜか彼女は自身がクローゼットに入り内側から扉を閉める。嘘っぽい感覚からの嘘っぽい行動である。そして、ここで極めつけの扉のしたからみえる影。すべては嘘っぽい。

  彼女は扉を開ける。カメラは彼女をとらえたあと高速でパンする。意外なことが起こる。180°パンしたあと別の部屋に通じる扉からこちらの様子をうかがうのは彼女自身だ。その彼女はすぐに姿を消し、カットののちもとの彼女は「待って!」とさけぶ。連続のなかに誤差が生じた。嘘っぽい状況のなかにかぎりなく本当のような映像の連続があり、魔法が生まれる。見る方への裏切りが重なり、「恐怖」は「不気味」さとともに大きく膨らむはずだ。

 

  もうひとりの彼女の下にいたのは消えたはずの夫だ。彼女の計略がうまくいったのか。叫ばない主人公の険しい顔。その後ろからフライパンが振り下ろされる。ドッペルゲンガー物の要素だ。カットがあって引きの画になると主人公を殴ったのは夫②で、それを見てたのは女②だった。

  嘘っぽい状況×本当っぽい連続の画面という奇妙な状況から魔法はうまれ、「恐怖」は「不気味」さへと昇華されるのではないだろうか。

 

 

映像の魔法はどこまで本物になれるのか

  非常に新しい演出のなかに、映像の魔法=欺瞞がより精巧な本当っぽさをもって生じた本作をみれば映像がもっともっと本物に近づくということを示しているようだ。

 

  しかし、あえて嘘っぽい状況を加えた後半をみれば、より映像が映像だからできる演出を創造するうえで、―かつてヒッチコックが再認したように―嘘が必要になることを認識させる。

 

  映像の魔法はどこまで本物になれるのかのカギは嘘をどこまで違和感なく含めるかという矛盾した問題をはらむのかもしれない。