猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【メモ】北野武と星野源はにてるのか?【試論】

  今日は、いつか本格的に書ければいいなっとおもってるアイデアでこざいます。

 

  きっかけはつい最近。録り溜めに録り溜めた『関ジャム』を一気見しているときだったのです。「2018年、音楽プロデューサーが選ぶベストテン」的な特集をみました。

 

  音楽オンチな私は、「へー、こんな人たちがいるんだ。すごいなぁ」というとても凡庸な感想を抱き、そのうえで3分後には一曲しか覚えていなくGoogleで調べるのに苦労してしまったのです。ああ、なんとぽこんつなことでしょう笑笑。

 

  でも、それでも知っていていまでも口ずさめるのは星野源さんの「アイデア」でした。考えてみるとこの手の企画ではいつも名前が出ているアーティストだなぁと気がつきました。そのとき、ふっと思ったのです。「星野源って北野武みたいだなって」。アイデアがアイデアをくれた瞬間でした。冗談のようなほんとの話を長い前段として、短い本編につなぎます(短文、失礼いたします。)

 

 

 

似ていること①:マルチプレイヤーの固有性

 星野源は俳優だ。そして、歌手でエッセイストで、作詞作曲家で音楽プロデューサーで、コメディアンの側面もある。踊りもできるし、ギターもできる。サブカルチャーマルチプレイヤーだ。見た目はいい意味で「普通」だが、やっていることは普通ではない。

  

 そのため、ひとりで複数の役割が可能だ。いや、より正確にいえば、ひとつの役職にとらわれずにすむ。星野源星野源の役割を果たす。それは、おそらく北野武が稀代のコメディアンで、俳優で監督で…であることに似ている。

 

 

似ていること②:復活というストーリー

  星野源はブレイクする前、病気で療養していたことがあった。くも膜下出血だ。療養を余儀なくされた。しかし、そこから復帰し復帰以前よりパワフルに活動をしたことで、さらに日本のエンタメ界にとってかかせない存在となった。

 

 北野武は大事故にあった。コメディアンとは似合わない大事故を笑い飛ばして武は復帰した。ふたりは復活をとげたストーリーをもつ。そのストーリーをもつからこそ、「一度死んだ独特の強さ」をもっているのかもしれない。

 

 

違うところ:混合型、並行型

  星野源は、俳優のとき歌手が、歌手のときコメディアンがその顔を出すことはない。『逃げるは恥だが役に立つ』では、ヒラマサとエンディングを歌うアーティストを混同する人はまずいないだろう。星野源は自分の色をすべてににじませることはない。すべての活動は並行している。器用に演じ分けている、ともいえるかもしれない。だから、「星野源」は曖昧なイメージをむすぶ。

 

  一方、北野武は監督でも俳優でもタレント(司会など)でも、武だ。それは悪いことではもちろんない。唯一無二のスターの証明なのだと思う。今日、皇室の行事に出た武は、紋付き袴を着ていた。でも、その紋の場所にはアルファベットでTの文字。まじめなテンションから武節を繰り出していた。どんなときでも、芸人で、監督で俳優でが混同したイメージとして存在するのが武なのだろうか。

 

  星野源は器用な並行型なら、北野武は唯一無二の混同型。そのあたりが、時代や価値観の変化とのカギになりそうだがそれはいつの日にか分析してみたいものだ。