猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

キヨという壮大なリズムゲープレイヤー【登録者200万!おめでとおおおおおおおおおおおお】

 ……

  昨日、登録者が見事に200万人を越えていったキヨ。本人いわく、ゲーム実況者史上3人目くらいの快挙らしい。 200万人の報告は動画となったが好きな子に素直になれない中学生のごとくのあまのじゃくながらいままでで一番嬉しそうに見えた。


キヨ。チャンネル登録者200万人突破したんじゃあああああああああ

 

 ちょっとおくれたが、今日はその記念稿としてキヨについて書いていきたい。

 あっ、今日の分析はめちゃくちゃ軽めでございます。本格的な分析は過去記事をご参照ください。

 

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タメとハシリ

 カラオケ(DAM精密採点)の一項目であるリズム判定はタメ(遅い)とハシリ(速い)という項目で判定される。おそらくこれにあてはめるならキヨはハシリが多い実況者だ。でも、ハシリ過ぎてだれもついていけないわけではない。視聴者が付いていける程度のハシリ気味を狙い続ける実況者だ。各項にわけてこの「ハシリ」についてみていこう。

 

ゲーム実況(ゲームの選択)

 キヨの活動の基礎、このゲーム実況。キヨは、単発実況が多くYouTubeだけで423本(実写除く)もあがっている。単純に比較はできないが、最俺でみるとフジが168本、ヒラ317本、こーすけは再生リストなしという風になっている。トップ4(ガレキ牛)でみると、レトルトは251本、ガッチマン77本、牛沢34本となっており、キヨがいかに単発実況が多いのかということがわかる。

 相対して、長く同じストーリーを追うゲームをしたりはしない。最近、長い印象のものでも『ネコトモ』の26パートというコンパクトさだ。牛沢が19パートかけた『絶体絶命都市』をキヨは12パートでこなした。加えて、キヨが連続で同じゲームの実況を投稿しないという点(連続投稿の場合は二本投稿が基本)も見ていくと、毎日みているひとにも視覚的な情報が統一されすぎないカラフルなものにしていることがわかる。サムネイルをみればその工夫がよくわかる。

 

 非常に多くのゲーム実況者、ユーチューバーがいるなかでそのトップクラスの登録者数を誇る要因のひとつがこの「ハシリ」気味のゲーム選びのテンポだろう。

 

 

編集(ゲーム実況、実写)

 編集はまさにキヨにかかれば難しめのリズムゲームだ。黒バックに文字の挿入というキヨを象徴する突っ込み方法があったり、他のメンバーのボケをぶちっと切る容赦ない時間短縮への編集があったかとおもえば、こーすけの顔の静止画アップを急に流したり、へたくそな説明をしようとするなど必要外の時間拡張への編集も突如としてされがちだ。時間拡張への編集でいうと、実況、『10分かくれんぼ』での小話タイムも記憶にあたらしい。

 前者の方が、後者に比べ多く配分されているので全体的には「ハシリ」的なテンポ感が強いが、後者がまざることで一辺倒なリズムを防ぎ、変転を推奨する。それは、まるで『太鼓の達人』の鬼でみられるようなリズムの変化に似ているものだろう。

 

 

運動神経の良さ

リアクション系実況者

 以上のようなテンポ感は運動神経の良さに比例するように思う。来たものに対する反応速度が実況者の中でも速い。だから、アクション系ゲームに対する親和性やツッコミが必要なバカゲーとの相性がよく、リアクション系実況者となれたように考えられる。『マリオメーカー』や『マリオカート』『ルイージU』などでは、この運動神経のよさと反応速度の速さ=「ハシリ」によって黙りがちな反射神経を使う場面でも動画が彼の声で埋め尽くされていた。「うるさい」(誉め言葉)はキヨだからこその現象といえるだろう。

 

サッカー、攻守の切り替え

  キヨはサッカーがとても好きなことはよく知られるが、サッカーの特徴は、攻守が素早く切り替えられることだ。それは、キヨのテンションの上下の切り替えや、ゲームの切り替えのテンポ感に似ている。野球が明確に裏表で攻守が決まっていて、実況会では牛沢が好んでいることは象徴的に思える。

 

……

 

 以上、「ハシリ」気味のテンポは、キヨという実況者の大きな特徴だといえるだろう。キヨは自然と自由にでも難しいリズムゲームをプレイし続けているのかもしれない。「私は自由でありつづける」とは本人の言だが、これからもそうあってほしい。

 

 

無色のマリーゴールドーーあいみょん「マリーゴールド」の効果について【後半】

 この記事は、後半です。前半を踏まえてみるとより面白いと思われます!

 よかったらみてください!

 

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 この曲の公式動画はこちら↓


あいみょん - マリーゴールド【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

 

マリーゴールド」とひまわり

 この曲の最大の「効果」を生み出しているのは「マリーゴールド」だ、と思う。実際に「マリーゴールド」が出てくる時の歌詞を見てみよう。

 

麦わらの帽子の君が

揺れたマリーゴールドに似てる

あれは空がまだ青い夏のこと

懐かしいと笑えたあの日の恋

 

 「マリーゴールド」が出てくるのはこのサビの部分のみであり、繰り返しをふくめれば、わずか2回の登場となる。「麦わら帽子」の形容として「マリーゴールド」が登場し、それがもちろん「夏」を背景として登場していることがわかる。夏、麦わら帽子とくれば親和性が高そうなのは“ひまわり”だ。マリーゴールドという植物の開花時期は4月から12月と長く、夏に限定される花ではないからだ。麦わら帽子の形もどこかひまわりに似ている。

 

 また、日本一多い曲のタイトル花は、さくらではなく、ひまわりだそうだ。『水曜日のダウンタウン』において明らかにされていた。コンサバな選択をすれば、“ひまわり”が登場しただろう。しかしながら、マリーゴールドであることはさまざまな「効果」をもたらした。

 

 まずは、「日常性」だ。マリーゴールドは比較的育てやすい。庭や鉢植えなどで多くみられる花である。ほとんどの場合、そんなに高価でもない。マリーゴールドの「素朴」さは、「君」にごく普通のでもかわいらしく小ぶりなイメージをつけることができた。日常の中にわすれそうなかわいらしい実存的な存在感をぼんやりと描くことができる花なのだ。

 

 

マリーゴールドの両義性

  マリーゴルードは、すでにこの曲をめぐって話題になっていたように「絶望」という花言葉がある。実はプラスの意味/マイナスの意味の両方が存在している。

 

  ・プラスの意味:「勇者」 「可憐な愛情」

  ・マイナスの意味:「嫉妬」「絶望」「悲嘆」

 

 いい意味はさきほどの素朴なマリーゴールドと親和性が高く、とくに「可憐」というのはイメージに合致している。しかし、悪い意味はその正反対の怖さを持っている。隠し絵やトリックアートに悪魔が隠されているような怖さがある。

 

 それだけではない。マリーゴールドには、虫を「除ける」効果がある。人間にとってそれは害虫を除けてくれるというありがたい側面もあるだろう。しかし、可憐な見た目に反し何かを排除する効果があるというのはやはりギャップのある事実といえるだろう。

 

 このような両義性は、見る角度やその人の経験などによってその意味合いを変える「効果」を表す。いかようにも描ける無色のマリーゴルドを歌の中に存在させることができるのだ。

 

 

無色のマリーゴールド

  さて、「マリーゴールド」という曲において「マリーゴールド」は、「麦わら帽子」と結びつけられていた。そのため、色もあいまいなのだ。「マリーゴールド」でよくイメージされる色はオレンジや黄色だが、どちらも空の下の「麦わら帽子」に当たらずも遠からずの色だ。

 

 光がつよければ、空の光が強ければ黄色っぽく、すこし弱ければオレンジっぽく。それは聞く側の描くものによって変わる。そう無色のマリーゴールドだ。マリーゴールドのイメージ自体も塗り絵のように枠=かたちだけがぼんやりあるだけなのだ。すべては写真的ではなく絵画的なイメージで統一されている。だから、さまざま解釈をさせてくれ、「共感」をさせてくれる。この曲は多様で細分化された我々の感覚を独特のあたたかさでつつむ包容力を、その「効果」で生み出している。

 

 

 

 

……

 

 ネタがたまってきていて書きたいのですが、なんだかタスクが多く書けなくて、つらいです…。そう言っている間にも頭から抜けてしまいそうです。メモしなきゃ。

 

無色のマリーゴールドーーあいみょん「マリーゴールド」の効果について【前半】

……

  北の大地は暑く、遠く沖縄と同じ気温らしいです。早くも夏バテしそうな今日この頃に明日からの寒さを怖がっております。気温のジェットコースターはつらいのです。

 

  そんな中、よく聞いているのが、あいみょんさんの「マリーゴールド」です。夏を思わせる曲だからでしょうか。とはいえ、去年の曲なのですが、東海オンエアのてつやさんがその素晴らしい歌声を披露したりとまだまだ話題の曲でしょう。

 

  今回はこの曲の歌詞を中心にこの曲が生み出す「効果」について書いていきたいと思います!

 ※ 「効果」とは、分析(あるいは解釈)が、 「何を意味しているのか」について書くのに対して、「何を生み出し、どうさようしているか」という問いです…。

 

……

 公式PV です↓


あいみょん - マリーゴールド【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

 

 

見えない主体――共感的「効果」①

  この曲には、いわゆる「語り手」のような存在はいるが、具体的な「僕」「わたし」「俺」のような一人称は登場しない。これはこの主体を見えなくさせ、あるいは「誰でもあてはまるのでは」と思わせる「効果」が考えられるのではないか。

 

 この曲の主体は、男か女か。たとえば、非常に単純な二元論で考えよう。君に対して、主体はリード的な、いわゆる旧来的な「男性」の部分を持つ。

 

「もう離れないで」と

泣きそうな目で見つめる君を

雲のような優しさでそっとぎゅっと

抱きしめて 抱きしめて 話さない

(一番のサビラストなど)

  

 「離さないで」ではなく、「離さない」という主体的な表現が、割と男前に受け止められるのではないか。もちろん、能動的=男性というわけではないが、「君」をリードするような側面は旧来的な「男性」的な印象を持たせるようにみえる。二番の同じ個所でも、以下のようにリードするような表現が続く。

 

ああ アイラブユーの言葉じゃ

足りないからとキスして

雲がまだ2人の影を残すから

いつまでも いつまでも このまま

(二番サビラストなど)

 

 キスをするのも、アイラブユーというのはこの主体に見える。主体は強さすら感じられるほどだ。そうこの能動的強さは最後に強調される。「離さない ああ いつまでも いつまでも 離さない」リフレインされるからだ。「~ない」「~だ」という固い書き言葉的な表現も、「固さ」が「男性」的といえるかもしれない。ある一面をとれば「男前」の主体が浮かび上がる

 

ー・-・-

 一方で、非常に柔らかく、「弱く」、「他力」的な表現も存在している。二番あたまの歌詞は以下のようなものだった。

 

本当の気持ち全部

吐き出せるほど強くはない

 

 

 「強くない」という言葉によって、ぼんやり「弱さ」が浮かび上がる。さらに、「でんぐり返しの日々」、「マリーゴールド」、「雲のような優しさ」というロマンティックな「柔らかい」表現には、旧来的な「女性」的なイメージがうかぶ。また、この歌詞の中で最も「女性」的なのは以下の部分であろう。なぜなら破調が起こっているからだ。

 

遥か遠い場所にいても

繋がっていたいなあ

2人の想いが 同じでありますように 

 

 書き言葉だった語調が「~なあ」という話ことばに一瞬変化する。「~ように」という表現には自力ではなく「他力」的な「弱さ」がある。非常に簡単な見方をすれば「女の子らしい」側面もみえてくる

 

ー・-・-

 では、主体のイメージを総合するとどうなるか。それはわからない。どちらともいえないし、どちらともいえる。だから、多くの人にあてはめることもできる。どこか自分(=聞き手)にも似ているような気もする。

 そう、これが「共感」を呼びやすくなる「効果」の一つ目だ。主体は、ひとつの「穴」として開かれている。対象а…いややめておこう。この主体は、非常に不確定な存在として「無性」的だから人によっていろんな形に形成可能だ。主観が介在する隙間をあたえてくれるのがこの主体だ。

 

 

 

「揺れる」時間と空間ーー「共感的」効果②

 「君」と主体は、いつどこにいるのか。正確に答えられるのはあいみょん本人くらいか。いやだれもいまい。全体に表記が「揺れる」からだ。振り返ってみよう。

 

 時間:「でんぐり返しの日々」、「あの日の恋」、「今日という日に」

 空間:「目の前」、「遥か遠い場所」

 

 時間、空間がもともと具体的なものが避けられている。その上、「あの日」⇔「今日」、「目の前」⇔「遥か遠い場所」と混ぜられて「マリーゴールド」のように「揺れる」。

 

 では、揺れることで何が起こるのか。それは、物語の結末がハッピーエンドなのかバッドエンドかということに関わる。「今日」一緒にいて「目の前」にいるなら非常に幸せにも思えるし、未来か今に「離れる」ならバッドエンドにもとれる。抽象画のような時間と空間は想像に主観を取り入れることを許可する。これも「共感」を呼ぶ「効果」の一つだ。

 

 ハッピーエンドなら「離さない」という言葉のリフレインは今の幸福に対する、やわらかな執着ともいえるだろうし、バッドエンドならそのリフレインは強迫観念にも見えるだろう。不思議な効果だ。それを感じ取るのは聞き手の感性次第といったところだろう。まさに瞬間シックスセンスry…。

 

 

 

中低音の歌声と日常―「共感」の効果③ 

 あいみょんの歌声は、そんなに高音をくり出さない。高い声はそれだけで“プロ的なもの”を象徴できるかもしれないが、この曲ではそんなに出していない。

 その声はつややかとも、力強いとも形容できるかもしれない。つまり、曲の「効果」を高めているのだ。「無性」っぽくもあるし、悲観/楽観的ともいえるかもしれない。

 

 

……

 

 さて、以上のことを踏まえていよいよ「マリーゴールド」が「無色」であることに言及できる。しかし、今日はこの辺にしておこう。この曲の最大のポイントは、麦わら帽子という夏を強くイメージさせるものと「向日葵」ではなく「マリーゴールド」が結びつけられたことだ。後編に続く…。

 

つづき↓↓

 

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【vimeo】『closet space』ーー映像の魔法はどこまで本物になれるのか

  春は思考力が鈍るかも…と個人的に感じてます。vimeoはその鈍った思考力にカツをいれてくれました。

 

 さて、映像は実は「本物っぽい偽物」ですね。幽霊なんてほんとはいないし、殺人が本当だったら警察が動くし、景色だって実はばらばらのところが勝手につなげられてるなんてことが多いです。以前、同じvimeoの「two devices connected」では《見えているものは本物か》というテーマを見てきましたが、今度は《映像の欺瞞=魔法はどこまで本物になれるのか》というテーマについて、2016年、vimeoに投稿された作品「closet space」を通してみていきたいと思います!

 

…ちなみにこの作品、3分でさらに英語(セリフ)もほとんどないので軽く見れちゃいます!ただし、ホラーが嫌な人にはちょっとキツイかも。

 

https://vimeo.com/ponysmasher/closetspace

 

 

 

 

【以下、ネタバレ注意!】

 

 

 

 

カットの魔法

  初期映画はただある映像が流れてるだけといっても過言ではなかった。そう、ワンカットだったから。それは垂れ流しと同じだった。いまでもワンカット映画はたびたびつくられているが、映画が物語を語ったり、エンターテイメントをとどけられるメディアとなったきっかけはカットが発見される時からだといっても過言ではないだろう。あり得ないものが、瞬時につなげられる。たとえば、鳩がいない空間が一瞬で鳩のいる空間につなげられれば、マジックが成立する。映像は魔法=欺瞞を得意としはじめた。

 

  カットをわることが重要なことは、サスペンスの神様と呼ばれたヒッチコックが身をもって知らせた。ヒッチコックは『ロープ』というワンシーン、ワンカット映画を撮ったものの、そのことがかえって編集の重要性を感じさせたと語る。

 

  実際、彼の代表作、『サイコ』では女性がバスルームで刺されるシーンで、カットと編集によって実際には刺さってないものを刺さっているように見せていた。カットは本当ならそこにはない「恐怖」まで、あるいは「サスペンス」という宙吊りの状態まで作り出した。

 

 

カットの間に潜む誤差

  「closet space」は日常のヒトコマの誤差からはじまる。

  主人公の女は、クローゼットにハンガーをかけ、その扉をしめる。ブンッという音。彼女が振り向くとカットがきられる。違和感を感じて女がクローゼットを開くと、ハンガーは二つに増えている。カットという切れ目によって数には誤差が生まれた。

  もう一度、扉をしめる。また、ブンッという音。扉をあける、カットの切れ目ハンガーは4つ。誤差。カットの切れ目の間に誤差が潜む。

  

  ここでは数があきらかに誤差を生むことで恐怖が生まれる。その数を目立たせるために、白いクローゼットの壁に対して黒のハンガーが採用されコントラストを生ませるという徹底ぶりでありそれはかなりコンサバな演出にみえた。

 

 

 

連続の中の誤差

  しかし、カットの切れ目の間に潜む誤差による比較的コンサバな恐怖演出はすぐに裏切られる。先程に続くシーン。

  訝しげな彼女の顔、ふたたび扉をしめて、カットなしに開ける。つまり連続のなかの一瞬にハンガーの数は誤差を起こす。これはどうやっているのだろう。非常に分かりにくいだけでカットがきられてるのか。それとも、開く前の一瞬でハンガーをかけているのか。

  どちらにせよ、ほとんど連続のなかに誤差が生まれた。それは、直後にもういちど扉をしめて、あけることがくりかえされハンガーが倍になることで強化される。

 

  もはや、映像はカットというしるしを限りなく薄めて魔法=欺瞞をより本物っぽくすることに成功した。これはもはや先進的ともいえるのではないか。

 

 

 

陰謀と裏切りーーうそっぽさと本物っぽさ

  主人公は、白目の人形でクローゼットの魔法を試し、それを夫とおもわれる人物に試させる。すこし、にやけた主人公の顔は何らかの陰謀を思わせる。この表情や感覚は、奇妙だ。なぜ、主人公は恐怖や緊張を感じないのか。

  しかし、夫は1人もいなくなる。これも誤差だ。画面は緊張感にあふれ、主人公もさすがにあせりはじめる。しかし、そこでなぜか彼女は自身がクローゼットに入り内側から扉を閉める。嘘っぽい感覚からの嘘っぽい行動である。そして、ここで極めつけの扉のしたからみえる影。すべては嘘っぽい。

  彼女は扉を開ける。カメラは彼女をとらえたあと高速でパンする。意外なことが起こる。180°パンしたあと別の部屋に通じる扉からこちらの様子をうかがうのは彼女自身だ。その彼女はすぐに姿を消し、カットののちもとの彼女は「待って!」とさけぶ。連続のなかに誤差が生じた。嘘っぽい状況のなかにかぎりなく本当のような映像の連続があり、魔法が生まれる。見る方への裏切りが重なり、「恐怖」は「不気味」さとともに大きく膨らむはずだ。

 

  もうひとりの彼女の下にいたのは消えたはずの夫だ。彼女の計略がうまくいったのか。叫ばない主人公の険しい顔。その後ろからフライパンが振り下ろされる。ドッペルゲンガー物の要素だ。カットがあって引きの画になると主人公を殴ったのは夫②で、それを見てたのは女②だった。

  嘘っぽい状況×本当っぽい連続の画面という奇妙な状況から魔法はうまれ、「恐怖」は「不気味」さへと昇華されるのではないだろうか。

 

 

映像の魔法はどこまで本物になれるのか

  非常に新しい演出のなかに、映像の魔法=欺瞞がより精巧な本当っぽさをもって生じた本作をみれば映像がもっともっと本物に近づくということを示しているようだ。

 

  しかし、あえて嘘っぽい状況を加えた後半をみれば、より映像が映像だからできる演出を創造するうえで、―かつてヒッチコックが再認したように―嘘が必要になることを認識させる。

 

  映像の魔法はどこまで本物になれるのかのカギは嘘をどこまで違和感なく含めるかという矛盾した問題をはらむのかもしれない。

 

  

撞着と「はかなさ」、痛み ―スピッツ「楓」:後編

 この文章には前編があります!!

 よければ、それもチェックしてみてください!!

 

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霊的な「君」-「僕」との距離、「聴覚」の優位

 この曲の「君」と「僕」は、独特な距離にある。サビで、「僕」は「君」に「さよなら」とつげる。サビの頭にくる「さよなら」というフレーズは、当然、大きく響き、身体的な距離の遠さ、別離がはっきりと示される。しかし、すぐに「君の声を 抱いて歩いていく」という歌詞が続く。「抱く」という、「性」をもイメージさせる、外部のものを内包しようとする動きは、「君の声」と「僕」の距離の近さを示す。「君」は、遠いようで近いところに置かれ、ふたりの距離は、中間的になる。この距離こそ、近さ―遠さの「撞着」(二項対立的なものが一緒にある状態)をしめし、「いっしょにいるけどいない」状況は、映画『ゴースト』に代表されるように、「死」のイメージ、あるいは切なさを引き出していく。

 同時に「君」はみえない「声」だけの存在となり、「死」のイメージがまとわりつく。霊的になるのだ。この曲において、「君」の情報は、「声」が優位だった。「声」は一番のサビ、最後に二度繰り返されるサビでリフレインし、この曲は「君の声を」というフレーズで占められていた。さらに、Cメロでは、「呼びある名前」の「こだまし」が「聴こえる?」と問う部分がある。名前は、普通に考えれば、「君」と「僕」のものだ。曲全体にながれるのは、音楽自体がそうであるように、「聴覚」的イメージの横溢なのである。

 一方、視覚情報は、秘匿性をもつ。「穴から」見えていたものは、「何」かわからない。「ガラスの向こうに」見えるのは、「水玉の雲」という、幻想的なものであり、不透明である。「君」については、たった一個所「笑えば」という部分における、笑顔のみの描写である。この曲自体も、「見えないけど、聴こえる」ものだろう。聴覚はたしかに視覚より優位だった。

 

 思えば、この曲のPVも聴覚の優位性を示してはいなかったか。公開されているPVは、以下のYouTubeからみられる。

 


スピッツ / 楓

 

 PVは、主に二つのパートからなる。一つは、3D眼鏡をかけるプラネタリウムを見るメンバーのパート、もう一つは、演奏するメンバーのパートである。このプラネタリウムに映し出されるものに注目してもらいたい。細胞のようなぐちゃぐちゃっとした不定形なものが、うごめいている。プラネタリウムに関連した星はおろか、「君」の存在も示唆されない。メンバーは、3D眼鏡を通じて、「みえているのにみえないもの」をみているのだろうか。一方で、演奏シーンでは、メンバーの演奏する姿が示され、音楽は途切れない。PVとしては、あたりまえの仕様だろうが、聴覚の優位はPVにもあらわれていた。

 

撞着と「はかなさ」、痛み

 以上のように、「柔らかさ」/「死」(あるいは「性」)、「いる」/「いない」という相反する状態が同居すること=撞着がこの曲を貫いていた。相反するものは当然、引っ張り合い、乖離を起こすことによって、揺れ動き、不安定となり、「はかなさ」をしめす。ボーカルの草野マサムネの細くて高い声は、両極から引っ張られてほそくぴんと張った糸のように緊張感を持ち、歌詞の内容と親和性があった。

 「楓」のイメージは、谷村新司が指摘したようにぼんやりしたものだ。それは、相反する者たちがその微妙なバランスを取ったときだけに現れる一瞬の閃光だ。だから、この曲は「よくわからない」のに「泣ける」のかもしれない。そのバランスが崩れやすいものだと知っているから。そう思えば無常観にもかかわるかもしれない。

 

 そして、その「はかなさ」は引き裂かれてしまうだろうから痛みを伴うのだ。いつかプチンと切れてしまう。青春時代や短い交際期間のように輝いているにもかかわらずすぐに終わってしまうから「痛い」のだ。

 不定形で曖昧な歌詞、はかない歌声から導き出される一瞬の状況。それが、この曲を聞くものに生々しい「痛み」を感じさせる。そのためにこの曲は曖昧さと明確さという矛盾した「謎」を持ち、求心力を持つのだろう。

 

 

……

2019年。100回目の朝ドラは『なつぞら』で、その主題歌はスピッツが担当した。いまだ、切ないかわらないその音が、北海道から発想されたものだということはとてもうれしい。

撞着と「はかなさ」、痛み ―スピッツ「楓」:前編

 実は、数年前からブログを書くことに対して憧れがありました。しかし、なかなか実現できず、その勇気を持てたのは最近のことです。そのとき、ちょっとだけ書いていた文章がありまして、それをこの間何かの拍子に発見したのです。ということで今日、挙げるのは二年前の文章となります。あまりにも年代合わないところは直しました。いつもとは少し文体等違うかもしれませんが、ご容赦くださいませ…。

 あっ、ちなみになのですが、話が長い私ですので、今回もまさかの一曲に対して全編後編としました。うーむ、短くカッコのいい文章を書きたいものです…涙。

 

 

 

……

 

 

多様な解釈を惹きつける、歌詞

 上白石萌歌がCMで歌っていた曲を何度もリピートしていた、2年前。音楽音痴の私はすぐに気が付かなかったが、1998年にリリースされたスピッツの代表曲、「楓」らしい。2年前どころか20年前の曲にも関わらず、どこか新しさを感じさせるこの曲の魅力に取りつかれ、かれこれ1日10回の病的ともいえるペースできいてしまっていた。

 この曲の魅力に憑りつかれているのは、もちろん、筆者だけではない。ちょっと、ググれば、多くのサイトがこの曲について取り上げているのがわかる。歌詞の解釈が多いうえに様々でおもしろい。この曲の魅力は、心地よい「謎」にあるのか。一応、公式のPVをのせておく。

 


スピッツ / 楓

 

 どうだろう。むずかしい言葉などひとつもないはずなのに、具体的にどんなことが語られているのか、はっきりはわからないのではないだろうか。言い換えれば、平易な表現のなのに、わかりやすくない。そのことは、意味を知りたい!(=解釈をしたい)という欲求を、喚起しているようだ。実際、この曲については、恋人と死別して最後には、主人公も自殺する曲、恋人と死別した主人公の精神的な不安定さを示した曲、死の恐怖を乗り越えるために性を歌った曲など、多様に「読まれて」いる。中には、ハイデガーの『存在と時間』と絡めているものまであった。

 

 

 そう、この歌詞は、心地よい「謎」をもっているのである。この点について、自身もアーティストで、大学の教授も務める谷村新司が、『関ジャム』という番組で言及していた。

 

 詞を見て、「楓」というタイトルをみておかしいと思ったことはありませんか。〔…〕タイトルは「楓」なんですけれども、歌詞の中に具体的に楓は一切出てこない。なんだけど、全体の曲を聞くと、ああ「楓」だって。〔…〕「風が吹いて飛ばされそうな」っていうところで、やっと風が出てくるんですけど、ここに唯一「楓」の気配、うっすら出てくるというか。だから、その、このタイトルと詞の世界のこの距離感。このすごさっていうのは、スピッツならでは。〔…〕だから、みんなが、いろんな説でてくるじゃないですか。これってもしかしてなになにかもしれない。例えば、そういう懐、これがこの作り方の一番のパワー。〔…〕多分、ネットとかでいろんな説が出ている。どんな風にでもイメージが広がって、解釈もできるっていうすごさっていうか、それはやっぱり、スピッツの草野さんの世界だと思うんです。

――『関ジャム』(2017年2月12日放送)より書き起こし。そのため、表記は筆者によるものなので、注意。この回でも出演者の錦戸亮から、「楓」は「君」の名前なのではないかという説がでていた。

 

 

 タイトル「楓」と歌詞の世界の「距離」に注目して、多くの解釈を惹きつけることが言及されている。たしかに、「楓」は歌詞に登場しないし、歌詞とのかかわりも不透明だ。ただ、歌詞の内部、ボーカル・草野マサムネの声、メロディという他の要素を合わせたとき、よりこの曲の心地よい「謎」の本質に近づけるのではないだろうか。

 

「柔らかさ」/「死」

 この曲を一度聞いたとき、あるいは深く考えずに聞いているとき、そのメロディラインの柔らかさを感じる。残念ながら、筆者は上記のように音楽音痴であり、楽譜も読めないため、その柔らかさを音楽的に証明できない。しかし、その雰囲気は、歌詞にも反映されている。それは、“丸いもの”の散在によって引き起こされている。「小さく丸くなっていたこと」、「穴」、「水玉」、「タマシイ」…。角の取れた丸いもの、それは、ひとつひとつの表現における平易さ、メロディの雰囲気、さらに、草野のところどころ舌足らずな声に反映され、全体に柔らかい触感をもたらす。

 

 「君」とのエピソードも柔らかい。「いたずらなやりとり」、「心のトゲさえも 君が笑えばもう 小さく丸くなっていたこと」、「呼び合う名前がこだまし」…。甘くて、平凡な(この曲でくりかえされる「歩く」という表現の日常性に似ている)恋愛を思わせる表現だ。

 

 しかし、この曲には、先ほど紹介したように「恋人と死別した曲」であるとよく解釈されている。はっきりと言明されていないのに、である。それは、「柔らかさ」とは、真逆なものが同居している状態からくる。「死」だ。「死」の匂いもまた、しみついてはなれない。もちろん、それは、「さよなら」という言葉、「軽いタマシイ」、「けど」「のに」で結ばれるかなえられなかった願望たちの表現からも来るものだろう。「僕」と「君」の距離のもつ中間性、さらには、この曲のもつ聴覚の優位とも関連する

 

  (さらに、「性」の感覚もあるだろう。それは、「穴」や「抱く」、「届く」というフレーズや、「死」の匂いから来るものだ。バタイユが、『嵐が丘』の分析で指摘しているように、「性」=生への運動は、「死」を想定しているという逆説がある。つまり、「性」には「死」と撞着的に存在するものなのだ。)

 

 

 このような柔らかさと死の混在状態のなかからどのような効果が生まれるのか、そのことについては次回、後編にて分析する。

 

つづき↓↓

 

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