猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【大人の絵本】過剰、過疎、奇天烈、怪異、摩訶不思議~『ギュスターヴくん』【ヒグチユウコ】

 

 絵本は子供ものか。否。近所の本屋には、絵本コーナーに大人が真剣な眼差しでたたずんでいる。その一角、名作だらけの中でも特に目を惹かれた作品があった。ヒグチユウコの『ギュスターヴくん』だ。一目惚れ状態で手に取ったこの本は、ただものではなかった。今回は本作について分析などしていきたいと思う。

 

 

【以下、ネタバレ注意】

 

 

 

www.hakusensha.co.jp

 

 

過剰

  表紙を見ただけで分かる通り、ヒグチユウコの絵は、キャラクター的なものとは明らかに違った「過剰」な細かい線、書き込みで構成されている。たとえば、中心にある猫の顔。「かわいらしく」、「リアル」だが、それは実に微細で大量の線や点によって形成される。瞳の虹彩部分は、猫のその複雑な色彩を小さな点が支えているようにもみえる。さらに、題名の「GUSTAVE」という字もそれぞれ別の装飾が施されている。とくに「S」はびっしりと小さな丸が大量に敷き詰められた。おそらく、この線や点は人の目ではすべてをはっきり認識できないほどであり、認識の範疇を超えた過剰なものである。ヒグチ本人は、伊藤潤二との対談において以下のように語っている。

 

 

 伊藤 ヒグチさん、空白恐怖症みたいなのはありますか。

 ヒグチ ありますね。描きすぎちゃう癖があって、過去の絵も画集で自分で見て「もっと描けたのに」って思うのの繰り返しだったり。だから今は逆にそれを克服ではないですけど、あまり考えなくなりました。

――『文芸別冊総特集 ヒグチユウコ指先から広がる魔法』P136

 

 

 

 空白への恐怖。それはいいかえれば、密集(≒過剰)への偏愛ともいえるかもしれない。しかしながら、過剰も「集合恐怖症」にみるように、「恐怖」との親和性が高い。全体を見れば、かわいらしかったり、きれいだったりする絵でもより近くで見れば(絵本という媒体はそれを可能にするものだ)うごめく黒い線の塊なのだ。ギュスターヴくんとともに多くの紙面を占めるわにくんも、見た目はかわいいながらも鱗も含めてその表面は無数の点と線が共存する。どんなにかわいい生物も無数の細胞の集合体だ。生物の持つ隠れたグロテスクが表象されている。

 

 

 過剰は、ギュスターヴくんの存在にも関係する。本の帯にも書かれているように、わにくんは冒頭にこのように問う。「きみは ネコなの? ヘビなの? タコなの?」。そう、ギュスターヴくんは、顔がネコ、手がヘビ、足はタコという容姿をしており、さらに「ギュスターヴ」という名は、フランス系の男性の名前でもあるが巨大なナイルワニの一種でもある。

 

ja.wikipedia.org

 

 一つの形態ではなく、多数性の合成。しかも、猫=哺乳類、ヘビ=爬虫類、タコ=軟体動物と類もばらばらなものの融合は非常に危うく見える。本人も「ネコかな」「ワニかな」と自分のがなんなのかについては断言しない。とくに、手の位置にあるヘビには立派に顔までついているので、手だけが意志をもってしまいそうな危うさもある。

 

 毒を持つヘビや、ぬるぬるとして這うように動くタコという生物は、悪的な気持ち悪さをはらむ。ディズニー『リトルマーメイド』のアースラは、人間とタコのハイブリットである。ギュスターヴくんは、その全体像に反し悪的ともいえる「気持ち悪い」細部でなりたっている。生物のグロテスクさは位相違いでギュスターヴくんそのものにも関係している。

 

  しかしながら、怪物や悪役になりそうなギュスターヴくんが全体像としてかわいらしく見えるのは、細部を全体性が覆い隠しており、さらに絵本ならではの「過疎」も関係しているのかもしれない。

 

 

 

過疎

 

 絵本という媒体はどういうものか、少し考えてみたい。多くは子供向けに作られているということもあり、子供たちが飽きないように短い構成だ。多くは1ページ~2ページを(漫画でいうところの)一コマとして、絵と文章が配分されている。絵と文章の比率は、だいたい絵の方が圧倒的に多く、情報量としては「過疎的」だ。現代では映像などの媒体もあるのでこの映像の量が非常に「過疎的」にみえる。そして、『ギュスターヴくん』の画角はとくに図鑑な構図(本から飛び出す様々な生物の配置)で平面的(陰影や運動線の抑制)なためにより、画が非常に静物的になっている。だからこそ、タコ的やヘビ的な動きが抑えられ、気持ち悪さが軽減され、細部の過剰さのグロテスクさも隠される。

 

 

 物語も、「過疎」的だ。本作は、簡単にいうと「ギュスターヴくんの持っている不思議な絵本からギュスターヴくんが増殖する」→「そのギュスターヴくんたちがいたずらで絵本からさまざまな生物を出す」→「ワニくんがそれをとめようとする」→「ギュスターヴくんたちがワニくんに反撃」→「話し合ったギュスターヴくんたちは生物たちを絵本に返し、もといたギュスターヴくんだけが残る」という話だろう。つまり、物語としてはA→B→Aという回復型(原状復帰型)といえる。しかし、ここには絵本にみられがちな「教訓」などが介在せず、全体的に意味の喪失してしまったような一種の「アナーキズム」がある。ヒグチも本作について以下のように話している。

 

 

 昔から、ああいう何の教訓もない話しを描きたくて。個人的に勧善懲悪とか、ヒーローがいて、敵がいて、みんな守られてみたいなストーリー者にあまり魅力を感じないというのはあります。〔…〕すごく単純な話でもあるんですよ。「だから何?」っていう態度だから。

  ――前掲書(ヒグチユウコ単独インタビューより)P50

 

 

 

 「教訓のない話し」は、単純でありながら還元できない。意味から浮遊したこの物語は、やはり過疎的であり、絵の細部に宿る過剰さとは反比例している。

 

 

  また、表情の変化の少なさ(「過疎」)は、ギュスターヴくんたちの顔の造形にフランス人形のような少し「怖い」美しさを付与している。思えば、「フランス人形的な美しさ」とは、幼さ(ベビースキーマ)を永遠に保存してしまったような罪責を帯びた美しさと人形の材質の陶器的な透明度や装飾の壮麗さという美しさの融合だ。だからこそ、そこには、「かわいさ」「怖さ」「危うさ」「美しさ」という複数性がともる。過疎から、再び複数性が生まれるという運動がおこる。

 

 

 

奇天烈、怪異、摩訶不思議

 

 以上のように、本作では、「過剰」と「過疎」という二つの状態が同時に存在し、読みすすめている個所、読み手の見方によって過剰・過疎が往来していく。過剰と過疎の往来は“なにかありそうでない”(≒なさそうである)という感覚を常に提供していく。

 

 これは、独特の世界観につながっていく。本作には、西洋っぽくも東洋っぽくもある。登場人物の洋装、細部の書き込みとリアルさ(過剰)は明らかに「西洋っぽい」。さらに、ワニくんが捕らえられたシーンは『ガリバー旅行記』の表象のようだ。平面っぽく、陰影のない造形(過疎)、登場人物の擬人化、なんとなくニヒルな表情と「いじわる」な造形は、歌川国芳の浮世絵の世界観のようだ。

 あるいは、寓話っぽくもあり特撮的でもある。裏に含まれた怖さはグリム童話的な雰囲気を醸し出し、同時に「怪異」の描き方、ギュスターヴという名前付け方と合体した怪物の造形は、円谷プロのようだ。「~ぽくて~ぽい」という過剰さは「~ぽくても~ではない」という過疎にもつながる。この世界観は、何度読んでも統一されない。見るたびにあらたな発見を呼び起こすスルメ的な作品だ。もはや、“奇天烈、怪異、摩訶不思議”という形状としか言えない本作はまちがいなく全世代向けだろう。

 

 

 

ギュスターヴくん 豪華手帳つき限定版 (MOEのえほん)

ギュスターヴくん 豪華手帳つき限定版 (MOEのえほん)