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日中・太平洋戦争期に日本の人々はどのように映画を見ていたか?【ミニミニ社会学】

 

 戦中の映画といえば、「プロパガンダ」のイメージがあるだろう。プロパガンダといわれる映画には、映画史に多大な影響を与えた『戦艦ポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督、露、1925年)や『カサブランカ』(マイケル・カーティス監督、米、1942年)も含まれるといわれていて、娯楽性の有無は関係なく定義はあいまいだ。表現と思想の問題は常にそのバランスが問われており、非常に難しい。

 

 しかしながら、考えてみれば、戦中下で映画がどのような存在で、どのように見られていたのかについて、よく知らないと思った。本記事では、日中・太平洋戦争期の日本をとり上げて、映画が当時の人々にとってどのようなもので人々の思想や生活に与えた影響がどのようなものであったか、先行研究を踏まえつつ、その一端だけでも明らかにしていきたいと思う。(ちなみに、本記事は2013年に書いたものを検討し、過失修正をしたものです。ご了承ください。)

 

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民衆から見た戦時下の映画

 映画は、当時の人にとっても手に届きやすい娯楽だったようである。井上雅雄によると、1939年時において入場料は55銭。ちなみに同時期に東京などの大都市ではかけそばが一杯10銭、天丼が50銭*1 、理髪量が55銭*2(大人)、雑誌「中央公論」が1円(1円=100銭)*3

 

 このような価格帯から見れば、映画(55銭)が特別に高価な娯楽ではなく、むしろ身近な娯楽であったといえる。そのこともあってか日中戦争がはじまった1937年、太平洋戦争がはじまった1941年の直後も観客動員数が激減したということは見られないし(図1参照。1945年については人数の統計が残っていない。)映画館も同じような傾向がみられる(図2参照)*4

 

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<図1>縦軸の単位(万人)

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図2

 

 以上の様に、戦中にも日本の人々一部の特権階級にかぎらず、一般市民も見られるエンタメであったと考えられる。次項では、日本政府が庶民の娯楽である映画にどのように干渉していったのかについて書いていきたい。

 

 

映画産業と政府の干渉

 映画産業に対し、当時の日本政府がどのように干渉をしようとしていたのか。今回、政府の干渉の代表的なものとして以下の三つを取り上げることとする。

  

1)1938年(日中戦争開始後1年):内務省が映画の上映時間・ダンスホールの営業時間など制限

 

2)1939年4月:映画法公布、施行

 映画事業が許可制になり、従業者は登録制となる。従来完成後に行われていた検閲が、撮影前にも台本の検閲という形で行われるように。その他、文部省認定映画上映時以外の14歳未満の映画館入場禁止、外国映画の輸入制限、文部省認定の文化映画の強制上映などの規定があった。政府としては、もともと低俗だった映画文化を高尚な文化に成長させたいというのが表の狙いとして、映画法第1条にも明記してある。

「第一条 本法ハ国民文化ノ進展ニ資スル為映画ノ質的向上ヲ促シ映画産業ノ健全ナル発達ヲ図ルコトヲ目的トス」

 

3)1941年1月:製作制限により邦画の封切本数が半減する(図3)。

 

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<図 3>1941年に邦画(青)が半減

 

 なかでも、インパクトがあったのは、映画法の公布であろう。映画産業も、大きな制限を受けることとなったからだ。制度の変遷だけをおうと、映画は政府の息がかかったもので国策的なものになっていったのではないかと考えられる。しかし、前述の統制がどれほど民衆の行動と思想をコントロールできたのかはわからない。次項では、以上のような統制がどの程度効力を発揮したのかをみていくこととしよう。

 

 

 

統制の効力

 上記の代表的な三つの政府の干渉例がどの程度民衆をコントロールできたのかひとつひとつを検討してみよう。第一に1938年の映画の上映時間の制限であるがこれは、あまり効果があったとはいえない。図1で見られるように常設館入場者数は内務省が制限をかけた1938年(3億629万人)にも、翌年の1939年(3億7573万人)についても減少するところか増加している。さらに有料観覧者総数についても1938年(3億4941万人)、1939年(4億1978万人)と増加が続いている(図4参照)。つまり、内務省の映画の上映時間の制限は人々の行動を規制するまでには至らなかったといえる。

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<図 4>縦軸の単位(万人)

 

 第二に、映画法についてである。まず、観客数であるが先ほど見たように1939年には減少はみられない(図1、図4参照)。また、その翌年の1940年についても常設館入場者数が4億503万人、有料観覧者総数が4億4027万人と増加しており、民衆の映画館に行くという行動を直接規制しているとは言えない。

 また、映画法は、映画の内容に関する検閲も含んでいるが民衆の精神・思想に関して誘導ができたのかどうか国策映画というテーマを通して古川隆久の研究を参考に考えていきたい。古川は、「国策映画」を検閲されたもの全般ではなく、政府によって検閲手数料を免除されたもの(免除の基準を満たしたもの)とした。免除の基準は以下の通りとされている。

 

免除の基準は、いずれの官庁や公的団体が免除を申請してきた映画のうち、製作技術が優秀で、かつ内容が「国体観念の昂揚、国民道義の確立、我が国内外情勢に対する認識の是正、軍事、産業、教育、防災、衛生等各種行政の宣伝、その他公益を増進するに資するものと認められるもの」である。劇映画の場合はさらに、いずれかの官庁が指導または後援して製作されたもの、いずれかの官庁が優良であるとして推奨されたもの、警保局が優良な劇映画であると判断したもの、という三つの条件のいずれかに該当する映画であった。

 ―――古川隆久『戦時下の日本映画』より

 

 

 本記事では、以上の定義だけではなく、政府の意図をうまく反映したと思われる「省庁の推薦を受けたもの」も“国策映画”としたい。映画法が施行された翌年の1940年に“国策映画”がどの程度みられたのだろうか。資料の関係で文部省推薦作品にしぼって考察をおこなうが、「キネマ写真館日本映画写真データベース 」によると「この年、文部省推薦作品は20本。その中で製作各社の興行成績5位以内に入ったのは『西住戦車長伝』と『燃ゆる大空』の2作品だけだった。」とある。*5

 

 また、古川によると検閲手数料の免除をうけた『歴史』(監督:内田吐夢)は興行成績が良くなかったという。要は、 “国策映画”は当時の人々に、あまりウケていなかったといえるだろう。ここには、映画をあくまでも純粋な娯楽と考える民衆の姿が少しだが見えてくる。例外的にヒットした“国策映画”の『燃ゆる大空』についても特技に「特撮の神様」と呼ばれた円谷英二が参加し、飛行機の滑空に迫力があるなど、当時の人の琴線に触れたであろうエンタメ的要素がヒットの要因と考えられる。“国策映画”のほとんどはあまり民衆の心がつかめたとは言えなかった。映画法が人々の思想に与えた影響は大きいとは言えなかったのではないだろうか。

 

 

 最後に、1941年の製作制限についてみていこう。観客数についてだが、常設映画館入場者数は1941年が4億3833万人で1942年は5億1009万人と増加傾向が続いており(図1参照)、有料観覧者数も1941年が4億6327万人、1942年は5億3276万人と増加傾向が続いている(図4参照)。そのため、観客は見るものが限られた中でも映画を観るという行為を特別ひかえていたとはいえないといえよう。

 また、“国策映画”についても「キネマ写真館日本映画写真データベース」によると1941年は、文部省推薦の「高峰秀子主演作『馬』(監督・山本嘉次郎)ですら不振」という状況であり、1942年は「この年の文部省推薦作品で興行成績ベスト10に入ったのは前記の2作(著者補足『ハワイ・マレー戦記』、『マレー戦記』)のほか、(中略)『翼の凱歌』(監督・山本薩夫)だけであった。」という状況であったという。

 

 以上のように映画に対しての規制は直接的には国民を十分に誘導、コントロールしたとは言えないであろう。むしろ、戦時下における厳しい情勢下でも市井の人々が映画を楽しみにみていた姿があったのではないかとすらおもえる。コロナ禍で苦しい現在も映画やエンタメの役割が大きいのではないかという示唆をもらった気がする。

 

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 【参考文献】

古川隆久(2003)『戦時下の日本映画』.吉川弘文社.

井上雅雄(2002)「戦前昭和期映画産業の発展構造における特質―東宝を中心として―」.立教大学経済研究会(編)『立教経済学研究』.1-24.立教大学経済研究会.

 

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*1:キネマ写真館 日本映画写真データベース(http://kinema-shashinkan.jp/special/-/489/)2013年8月5日閲覧より。現在はサイト閉鎖されています。

*2:井上雅雄の同論文より、昭和16(1941)年の値。)、職業野球(現在のプロ野球)の入場料が50銭~1円 ((野球殿堂博物館 ホームページ2020年9月2日閲覧済み。1940年代は、80銭~1円40銭と多少の値上がりも見られる。

*3:井上雅雄の同論文より、昭和12(1937)年の値

*4:以下すべての図の値は、古川隆久の『戦時下の日本映画』を参照するので注意していただきたい

*5:キネマ写真館(http://kinema-shashinkan.jp/special/-/489/)参照。2013年8月5日閲覧。すでに、サイト消滅のため再確認不可であり、注意。