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【世にも奇妙な物語】「おばあちゃん」、トラウマの根源と「演じる」行為【恐怖】

 

 『世にも奇妙な物語』(2001年、秋特別編)の「おばあちゃん」という作品は後味の悪さなどから、当番組の長い歴史のなかでも有名なエピソードになっている。

 

 もちろん本作には、多くの考察がすでに出回っており、「怖い」や「胸糞悪い」と呼ばれる理由や要素もかなり他ブログでとり上げられている。そのため、今回は視点を少し変えてみたい。本記事では「演じる」ことが「わたし」を定義不確定にしていく「恐怖」のひとつの表象として本作を例にとり上げ、「演じる」ことそのもののもつ「恐怖」について述べていきたい。つまり、この作品は「演じる」ことの恐怖を示した自己言及的な要素を持っているのだといいたいのだ。

 

 ちなみに「おばあちゃん」のプロローグで、ストーリーテラータモリの以下のような言葉で始まっている。

 

人生は始まってしまうと、幕を下ろすことはできません。何があっても、演じ続けなければいけません。たとえ、役回りが変わったとしても…

 

 

 

【※以下、ネタバレ注意※】

 

 

入れ替わり;「演じる」こと=(虚構の)「他者」となること

 「おばあちゃん」という作品は、ある少女が、赤ちゃんの頃にしか会ったことのない田舎の父方の祖母に父母とともに会いに行くことからはじまる。田舎を走るバス、赤い椅子、都会の一家の少女(アイコン的な麦わら帽子)、第三者的で不安定な車内の客観的ショット、カーブミラー越しの虚像であるバスのショット…。田舎という異世界へのいざない、不和な両親、不穏な演出には意図してか/せずか、主演の少女・美保を“演じた”柊瑠美の代表作『千と千尋の神隠し』の冒頭に似ている。演じている柊瑠美と演じられている架空の「千」が、あいまいにもクロスオーバーされていることを示唆してはじまるのだ。

 

 ついた先の祖母の病室は、明らかに「おかしい」。看護師の格好は、戦前のようだし、病院自体、コンクリートであり暗すぎる。肝心の病室も完全に似つかわしくないとは言えないが、一人の病室とすれば広すぎて、コンクリートは無機質すぎて、そこには「異化」*1の空気が漂う。映像史的にいえば、90年代の日本映画における廃墟的ホラーの質感(主に黒沢清高橋洋瀬々敬久青山真治監督作品の「それ」ら)を踏襲している。祖母のいるベッドを囲むカーテンが半透明であることなど、まさしく黒沢清ではないかとも思う。

 

 実際、祖母も「おかしい」。機械に囲まれているのは当たり前としても、そのさまがあまりにも過剰なのだ。祖母の体の一部として強調される手も妙につるつると光っていて、生体としてのイメージが崩れている。以上のような「異化」による違和感は、この後の超常現象によって顕在化する。

 

 違和感は、冒頭の示唆を受け継ぐ。主演の柊がもつ「演じる」/「演じられる」あの主題形が浮上する。祖母は一人になった少女の脳内に直接語り掛ける。「もうすぐ自分は死ぬ。最後にどうしても会いたい人がいる。自分と入れ替わってほしい。」

 

 少女は、会いたい人が弟であると聞いて話に乗る(ここに祖母の嘘があり悪意がある)。ここで起こるのは、いわゆる“入れ替わり”だ。他者が自分に「憑依」し、自分が他者に憑依すること。それは、そのまま「演じる」ことの主題形に類似する。実際、少女の体に入った祖母の意識は、少女を疑似的な運動として「演じる」。うごけない祖母の体に押し込められた少女の意識は「演じる」ことを禁じられ、祖母の身体的な「苦しみ」をそのまま受け入れることになる。

 

 

他者へ深すぎる共感と「憑依」;「演じる」こと=「ふたり」、不可分

 少女の体を乗っ取った祖母は、少女として、少女の姿でかつての思い人に会うことに成功。しかし、そこでこちらも死に際にある思い人の娘に見つかって通報されてしまう。警察(なぜか交番ではない)に保護されるが、迎えに来た母親(演:深浦加奈子)は少女をみるなり、なにをしているのだと彼女をはたく。暴力は、パンによるワンカットで抑えられていて、躊躇がない(ここも黒沢清ら90年代的表現)。少女のからだは、受傷し、その痛みはダイレクトに祖母の意識へとつながる。

 

 少女の母親のもっている威圧的な雰囲気が、祖母自身だけでなく、孫である少女にも確実に向けられていることを傷という生々しい「痛み」によって知ることは、少女の境遇に自分が置かれてきた(嫁に遠ざけられてきた)という境遇に重なり過剰な「共感」に変容する。

 

 同じことは、祖母の体の中にいる少女にもいえる。祖母の体の「痛み」と孤独、絶望などをその身体を通じて知るからである。他人の身体と不可分となった「痛み」は強く「共感」を喚起する。それはもはや想像ではなく、「憑依」なのだ。その生々しさは、もはや彼らが仮に元に戻っても、入れ替わる「以前」の感覚、意識には「戻れない」ことを表面化する。

 

 その象徴が、警察署を両親や警官の隙をぬって脱出した少女の体(=祖母の意識)が、母親の財布を夜の山間に捨て去るという「見てはいけないもの」を見た感覚を呼び起こさせるような身振りとそれを捕らえたショットにも表れている。

 

 「演じる」ことが、他者を通じ自己と他者をあいまいにしていくこと。これは、一般的にドラマ、映画、舞台などでの「演技」が必ず「観客」という「他者」の目を必要とし、その目によって演じる自己/演じられる他者が曖昧に溶け合っていくという運動そのもののようにみえる。小関すま子は以下のように指摘している。

 

 

他者は観客の視線に支えられて初めて、意識の検閲を超え、自分をも他者をも超え出る時空に出てゆく。本当に演技がうまくいっている時には、役者は観客の視線を我が物にとし、それに支えられ、またそれを自由に操る。一方観客の方は役者の身体を通じて立ち現れる、より普遍的な感情に突き動かされている。役者も観客も包括し、より大きな感動の高みへと運び去る、何かの力が働くように見える一瞬である。

――小関すま子「演じる身体と自己」*2

 

 

  小関が指摘する演じる側(前者)の能動的な身体の運動性は、少女の体のなかにいる祖母にあてはまり、観客側にある受動的で演じる側を成立させる「目」や意識は祖母の体の中にいる少女にはあてはまらないか。二人は、その入れ替わりにより両者がいてこそ達することのできる次元にいる。「ふたり」は、深すぎる共感によって不可分になってしまった

 

 

 

「死」と不可逆;「演じる」こと=不可逆な「わたし」

 少女の体は祖母の強い意識によって、祖母の体(少女の意識)のもとに戻ってくる。例の違和感のあるあの病室だ。ふたりは、意識下で会話する。祖母の体の死に祖母の意識が間に合った。それは、ストーリー形式でいえば少女の意識をぎりぎりで助けたというラストタイムレスキューのように見える。しかし、それも見せかけだった(このあたりが観客への裏切り=どんでん返しになり、“胸糞悪い”の原因になっている)。

 

 画面は、少女のナレーションから30年後少女の母親の葬儀に代わる。少女は祖母の体で体感した苦しみが、おそらく母親によって繰り返されたことを語る。少女は柊瑠美から、“サスペンスの女王”の片平なぎさにかわっている。彼女の強すぎる目力は、この物語が「ただ一日祖母と入れ替わったお話」ではないことを予期させる。

 

 あの日の様に片平なぎさ以外の親族がいなくなる。片平は、手元の袱紗を折り始める。そして、あの入れ替わった祖母が少女の体をつかってやったように童謡を歌い、お手玉の様に袱紗を扱う。なぜ、あの曲を片平が歌っているのか、お手玉をしているのか。おかしい。最後に袱紗をぎゅっと握る片平。キッときつくなる目元。そして、確信的な一言を放つ。「――やっぱり戻ることはできなかった。まだやり残したことがあったから。だって不公平だろ。この女にも苦しい思いをさせなきゃ。不公平だろ?私ばっかりじゃ。」

 

 ナレーションによる心理的な声により告白される少女の体を死にかけていた祖母の意識があのまま乗っ取ったという事実。セリフが進むにつれ、少女(柊)の声が、片平になり、この最後の最後で祖母(草村礼子)にオーバーラップしていくほどに、少女の体は完全に祖母によって、乗っ取られたまま少女を「演じる」祖母の意識によって動かされていることがわかる。自分に冷たかった嫁へ長いながい復讐をするためといういびつな悪意を動機として、だ。

 

 ついに少女-祖母は不可逆の関係となり、「演じる」(借りること、仮の状態)が「本物」(状態)になってしまった。つまり、精神と身体の分裂が「状態」となったのだ。この関係性こそ、「演じる」ことの危うさの類型を提示している。そもそも、「演じるとはなにか」。再び小関の言を借りよう。

 

 演じるということは虚構の身体を生きることにほかならない。

 渡邊保は歌舞伎などの伝統芸能で見られた、役になっている役者と日常で見る役者の間の非常に大きな落差の例を示している。舞台の身体とは本来的に「虚構の身体」である。役者は日常的な意味でおのれを殺し、様式的な虚構性をまっとうする中で、かえってリアルな感情を観客に訴える。

 そのような虚構性の構造は仮面劇や人形劇などにおいて、さらに典型的な形を取る。演劇の起源の多くは聖霊や神の仮面をつけ、それらへの憑依のなかで演じられた。

 ――小関すま子「前掲書」*3

 

 

 「演じる」ということは「虚構の身体」を生きることとされている。日常の「わたし」とは違う他者(聖霊や神)を「わたし」の身体におとしこむという行為(≒憑依的行為)として言い換えることも可能ではないだろうか。しかしながら、他者が普段の「わたし」とは明らかに違う聖霊や神ではなく、自分に近似したものだとしたらどうだろう。他者「になる」、他者を「おとしこむ」という一種のイニシエーションは薄まり、他者と日常「わたし」は必ずしも「演じる」対象と可分とはいえない。つまり、そのため、虚構性は“強硬とはいえない”。

 

 虚構性が、本当になってしまうというのは、「演じる」ことが「自己」そのものを変質させることを示唆している。身体的な変質ではなく、精神的な変質。そのため、「おばあちゃん」では独白的ナレーション的演出(心理的、精神的、内部的)を多用していたのではないだろうか。

 

 そして、「演じる」ことが「自己」そのものを変質させることが究極に「恐怖」型となることが今作の様に、「演じる」ことが「自己」が分裂するという不可逆な運動だ。身体の同質さ/精神的な異質さの相反するものの同居は、「演じる」ことが永遠に身体を媒体としてその人を変質させる側面を表出させる。

 

 このような主題形は、サミュエル・フラー監督作品『ショック集団』(1963年、アメリカ)にもみられた。精神病棟内での連続殺人を解き明かそうとした新聞記者である主人公は精神病患者を「演じて」その中に入り込み、実際にその事件の真相をあぶりだすが、自分自身が本当に精神病患者になってしまうという物語だ。「演じる」ことは、「自己」を大きく変質させてしまい身体の内部でその精神を完全に変えてしまうかもしれないスリリングな行為だということがここでも言及されている。

 

 「演じる」ということは、非常に「スリリング」で「怖い」。そのことを、「演じる」ことが前提の「ドラマ」において言及された。「おばあちゃん」という作品の「怖さ」にあるのは、「演じる」ということへの自己言及を潜在的に抱えている。だからこそ、トラウマ的ともいわれるのだろう。

 

 

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 …ああ、そういえば、この恐怖は俳優さんのような特殊な人だけにあてはまるものでしょうか。あなたは自分を「演じて」いませんか。自分のキャラを貫こうと自分を「演じて」いませんか。もちろん、すぐには「分裂」にはつながらないでしょう。というか、ほとんどつながらないはずです。しかし、それが少しだけ過剰になってしまったのなら、あなたはあなたのおもうのとは真逆の人間になってしまうかもしれません。「演じすぎ」にはご注意を…。

 

 

 

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*1:ベルトルト・ブレヒトによると「異化」は以下のように説明されている。

「異化とはなにか?

  ある出来事ないしは性格を異化するというのは、簡単に言って、まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心を作り出すことである。」

「実験的演劇について」『今日の世界は演劇によって再現できるか―ブレヒト演劇論集』(千田是也訳、白水社、1996年、P123)

*2:駒澤大學教育学研究論集』(19)、P137-149、2003年

*3:駒澤大學教育学研究論集』(19)、P137-149、2003年