猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

“「笑い」ってなに?”を少々まじめに考えてみた【ミニミニ哲学】

 

 

 「笑い」は面白い概念だと思います。そのメカニズムを言語化しようとすると、「笑い」から遠ざかってしまうからです。しかし、このような複雑なものだからこそ、考えてみたいと思ってしまいます。なんというか…変な性分です。

 

 今日は、その第一弾を書いていきたいと思います。考えがまとまったらその都度、第二弾、第三弾と続けていけたらというのが理想です。そして、回を追うごとに「笑い」の本質に近づいていくように努力していきたいと思います。

 

 

 

「笑い」研究の先駆者ことベルクソン

  ベルクソンは、1900年に『笑い』(原題;Le rire)において、「笑い」という概念やその分類を体系的に示している。「笑い」を知るには避けられない名著である。ただし、『笑い』という本は、なかなか理解するのが難しい。そのため、ここでは非常に簡単になるがその内容について触れていきたい。

 

 ベルクソンは「笑い」の根底にあるのが、「機械的なぎこちなさ」だ。ベルクソンの笑いの例として挙げられるのは、“つまずいて転ぶ”というシチュエーションである。

 

 

こわばり、あるいは惰性から、事情がほかのことを要求していたのに筋肉が同じ運動を続けたのである。それゆえ男は転び、それを通行人は笑うのである。(P18)

 ――アンリ・ベルクソン『笑い』(原章二訳、平凡社、2016年)

 

笑いを誘うのは、注意深い柔軟さや生き生きとした屈伸性がほしいところに、一種の機械的なぎこちなさが見られたからである。(P19)

 ――前掲書

 

  この二つの文では、“本来はそうあるべきだった状態”―あるいはエラー無くスムーズに進行している状態―(例、歩いている)が何らかの形で、“機械的にぎこちない状態”―一種のエラー状態―(例、転ぶ)へと移行するところに「笑い」が生じるというのである。そして、この「笑い」は、社会的なものであるともいう。少し長めの引用だが重要な点なので書き起こしていきたい。 

 

社会は人間が絶えざる相互適用の努力をなすことを求めている。したがって、性格と精神のこわばり、そしてまた身体のこわばりも、社会にとってはすべて心配の種となる。なぜなら、こうしたこわばりは活力が眠りこむしるし、あるいは活力が分離し孤立して社会の描く軌道から外れてゆくし、つまり離心のしるしかもしれないからだ。〔…〕社会はなにか気がかりなことに直面しているのだが、それは兆候としてあるにすぎない。――脅威というほどではなく、身振り程度にすぎないのである。したがって社会もまた、単なる身ぶりによってこれに応える。笑いとはそうしたもの、つまり一種の社会的な身ぶりではあるまいか。笑いは笑われる者に不安を抱かせることによって、離心者たちを抑制し、ともすれば孤立して眠りがちな一部の傍流的な諸活動をたえず目覚めさせ、それらを相互に接触させるのだ。要するに笑いは、社会的身体の表面にのこる一切の機械的なこわばりを柔らかく揉みほぐし、しなやかにするのである。(P26~27)

 ――前掲書(注:下線引用者による)

 

 

 以上の文を著者なりに解釈すればこのようになるか。「機械的こわばり」(=「機械的ぎこちなさ」)は社会という大きな流れのスムーズな運行に対し、一瞬現れる微細なエラーだ。このエラーは、いまだはっきりとはしていない兆候(≒「身ぶり」)程度だが、やがて大きな流れを乱すものになるかもしれない。その反抗の予兆を抑制するものとして、「笑い」は存在するのだ。「笑い」は、「笑われる」ものに自身がエラーになりうることを自覚させ、不安にさせる(笑われるのは意図してない場合、苦痛である場合も多い)。そうして、「機械的こわばり」を社会という全体の流れになじませるのが、「笑い」だ。その意味で、「笑い」は「社会的な身ぶり」なのだと。

 

 

 

 

「笑い」はなぜ個別的なのか~「笑い」と親近感

  以上のようにみれば「笑い」は、社会的な反射のようにもみえる。「笑い」は個人的なものに見えて、社会性から導き出されている常識的な振る舞いが反射的に出ているということだ。ベルクソンの「笑い」の概念にはさらなる解釈の検討が必要なのは間違いないが、少なくとも、人々の生き方がより多様化した現代においては「笑い」が「社会性の学習」から導かれるものとはいいがたいのではないか。

 

 確かに、「笑い」は社会的なものと不可分という側面もある。時代や地域によって「笑い」の対象(“何がウケるか”)や「笑ってよい」対象(笑いとコードの問題)は確実に存在している。ただし、そのなかでも個人によって“笑いのツボ”は存在しており、「おもしろい/つまらない」論争や、どちらがおもしろいか論争は最近でもよく聞かれる。

 

 つまり、(現代では)「笑い」と「社会」の関連はある一定のレベルまでにとどまってしまう。ある一定よりさらに個人的な視点で見ても「笑い」と不可分な要素はなにか。今後、本ブログで問題にしていく点はここだ。今の時点でキーワードになると考えるのは「親近感」だと考える。ひとりひとりパーソナルスペースが異なるように、「親しみ」をかんじる範囲は違う。「笑える/笑えない」のとらえ方が違うのだ。名作コメディ映画や名作漫才が、何十年も経つとかなり形式がかわっていたり、古典喜劇が高尚すぎて笑いどころのわからなくなっていたりとうのも「笑い」と「親近感」の関係性を示唆していると思われる。

 

 また、「笑い」がその時代もっとも影響力を持った媒体に親和性が高いのもそのためではないか。映画ではコメディ、テレビでは漫才やコントやバラエティ、YouTubeではおおくのコンテンツで、「笑い」は提供され、伝播してきた。いや、「笑い」は「親近感」のある場所を磁場として発生しているのではないか。第二回以降では、「笑い」と「親近感」についてより深く考えていきたい。

 

 …つづく…

  

 

笑い/不気味なもの (平凡社ライブラリー)