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【相棒9】「ボーダーライン」はなぜ“カルト的人気”を放つか~悪の中心なき「散在」的実存論

 刑事ドラマファンにとって、昭和は輝いていたといえるかもしれない。『太陽にほえろ!』を筆頭に『大都会』シリーズや『特捜最前線』『刑事くん』など個性的な刑事ドラマが多く制作されたからである。では、平成を代表する刑事ドラマといえば、『相棒』だろう。

 『相棒』は水谷豊・寺脇康文の主演で2000年始まり、ドラマ不遇期にあって高視聴率を記録。第7シーズン途中でで寺脇が降板したのちは、杉下右京=水谷の相棒役として、及川光博(神戸尊;S7~S10)、成宮寛貴(甲斐亨;S11~S13)、反町隆史(冠城亘;S14~)がキャスティングされ、平成までにプレシリーズを除き、第17シーズンが、映画はスピンオフを含めると6作品が制作されている。

 

 その『相棒』シリーズのなかでも特に語られる作品がある。第9シーズン8話の「ボーダーライン」だ公式サイトにのっているあらすじは以下の通りだ。

 

崖下から柴田(山本浩司)という男の転落死体が発見された。刃物による傷があることから、何者かに追い詰められて転落した可能性もある。柴田は金もなく、期限切れ間近の保険証と大中小3つの鍵を持っていただけ。

柴田の奇妙な胃の内容物から事件に興味を抱いた右京(水谷豊)は、尊(及川光博)と捜査を開始。今年1月、寮付きの仕事が決まったからとアパートを出た柴田。死ぬまでの11カ月が空白であることがわかる。

大きめの鍵がレンタルコンテナのものであることが判明。柴田はコンテナを借りていたが、中で寝泊まりしていたため、契約を解除されていた。寮付きの仕事が決まっていたはずなのになぜ?やがて小さい鍵が私書箱のものであることが判明。新たな事実が浮かびあがる。

鍵とともに埋められていく空白の11カ月に隠された衝撃の真相とは…!?

――相棒9公式サイトより(テレビ朝日|相棒season9

 

 現在でも多くのサイトで言及されている。たとえば、ニコニコ大百科にもその単独の項があるほどだ。

 

dic.nicovideo.jp

 

 最強(最恐?)の「鬱回」としてかなり有名な本作だが、なぜこれだけエピソードがあるなかでこの回がカルト的な人気を誇るのだろうか。それについて話していきたい。

 

【以下、ネタバレ注意です】

 

 

 

 

 

『相棒』における「ボーダーライン」の位置と同時代的「貧困」感覚

  

 さて、さきほども述べたように、この回が放映されたのは、『相棒』において重要な役、つまり水谷豊演じる杉下右京の相棒=寺脇康文が交代した後だった。寺脇康文が演じた亀山は、頭脳明晰の操作マシーンの右京の逆をいくような肉体派で、右京の気が付かないようなものに気が付く感覚派の刑事だ。一方、前シリーズから相棒となった及川光博演じる神戸尊は、警察庁から杉下の「行き過ぎる正義」(要は、組織にとって耳の痛いことまで暴いてしまうこと)を監視するために送り込まれた「S」(スパイ)として特命係に任命されたという背景をもっており、杉下と同じような「エリート」である。

 このような交代は、「知性×感覚」というわかりやすい主役二人の補完関係から「知性×知性」という対立関係へと変化させ、作風へも影響した。亀山のころにあった映像的ミステリーをおもわせるものから、「社会派」へと変化する。「誰がやったのか」(フーダニット)から「なぜやったのか」(ホワイダニット)への重点の変化ともいえようか。

 

 このような背景のなかで、神戸期を代表するようなエピソードが「ボーダーライン」だろう。それは、当時の社会背景をかなり反映し、放映当初はおそらく「身につまされる」という感想をもつのも不思議ではなく、それが「鬱回」への階段をかけぼらせたのは事実だろう。その社会背景に言及する。

 

 作品データ

 演出:橋本一

 脚本:桜井武晴

 放送年月日:2010年12月15日

 ゲスト:山本浩司

 補足:貧困ジャーナリズム大賞2011受賞作。

 

 背景データ

 2008年:リーマンショックによる不景気

   →派遣社員をリストラする通称「派遣切り」が社会問題化。

   →秋葉原通り魔事件発生。犯人の男が派遣社員であったことが大きく報じられる。

 2009年:「ブラック企業」に関する映画の公開=『ブラック企業に勤めているんだが、もう俺は限界かもしれない』

 

 以上のように、経済状況の悪さによる「働き生きていく」ことへの苦しさが、かなり社会問題になっていたように思う。当時は就職することも今以上に大変だったと記憶する。そのため、「ボーダーライン」の被害者=柴田をめぐる状況は、家族との疎遠、派遣切り、婚約者との別離、生活保護からのもれ、名義貸し、資格の無意味、ホームレスなどと信じられないほどの不幸と転落の連続だが、それはかなり「リアル」になっている。つまり、彼の不幸は多くの「視聴者」とかなり「近い」ものだったといえるだろう。しかし、この作品の衝撃は作品上の文脈や社会学的アプローチだけでは足りない「リアル」をもって「陰鬱さ」を強調する。

 

 

 「犯人が悪いのか」/「社会がわるいのか」という無意味な問い

 柴田は結局自殺した。それはどうやら「自分を殺したのが社会そのものである」ということの告発のようだ。たしかに、柴田が絶望せざるを得ない状況をつくりだしたのは、「社会」のように思う。ここだけみれば、社会がもつ悪への責任の問題が見え隠れする。

 

 しかし、柴田は悪くないだろうか。右京は言う。

 

 「周りの人間も、そして、彼自身も手を差し出す勇気が必要だったのかもしれません。」

 

 柴田はたしかに、決定的なものがないながらも少しずつ追い込まれた。しかし、そこでなにか少し変えていれば、プライドを捨てていれば、結果は違っていたのかもしれない。彼の兄や婚約者は、柴田自身への非難の言葉を述べていた。「どこにいってもダメなのには貴史(=柴田)にも原因がある」、「いいかげんに働いているからだ」…。周囲の人間がそう感じる何かを彼は持っていた。まわりが常軌を逸するほど薄情ではなかったという状況をみればそれはわかることだろう。

 

 つまり、「社会」にも「彼」にも原因はあった。自殺への因子は、ひとつからではなく、複数に「散在」していたのだ。そのため、犯人、あるいは「悪」を具体的な対象に求めていた視聴者は肩透かしを食らう。柴田を追い詰めたのは、「誰か」ではない。ここまでの議論は最近の事件に対する相反する問いのある種の不能を思い知る。「社会が悪いのか」、「犯人が悪いのか」。答えは、我々が安心できるほど単純ではない。両方、単独ではその悪という現象の因子にはなれないし、両方とも因子であるということだ。はっきりとした輪郭をもたない悪の因子はわれわれに「判然としない」という感情とともに、一般的に作品のなかで戯画化されたものではないため、「リアル」であり、柴田を追い詰めたひとの罪責も追い詰められた柴田自身の罪責も、我々との明確な違い=境界(ボーダー)をもたないために余計に「陰鬱」だと感じるのかもしれない。

 このような問いとそれが無意味となってしまうことの反転や「恐怖」は、柴田のおぞましい自殺方法へと偶然にもリンクしてしまう。再起をかけて得た「医療事務」の資格。当時、就職難のなかでかなりもてはやされていたように記憶するこの資格は、彼が未経験者であることを理由に正規の効果を発揮できなかった。それは、彼を「生かす」ものとしてではなく、反対に「殺す」ものとして反転した効果をもたらすのだ。他殺を偽装するための知識になるのだから。刃物で自ら防御創を刻み込む痛々しさは彼が生きようとしたかつての知識からもたらされてしまったものだ。よかれとおもったことがすべてうまくはいかないように…。

 

 

 

だれかはだれかの脅威となってしまう;悪の「散在」的実存論

 さて、さきほど悪の因子は、「社会」だけ「個人」だけにも求められず、逆に両方とも含んでいるとした。ではより社会に目を向けよう。本作に登場する人物たちはその濃淡こそあれ、柴田を追い詰めた罪責をもっていた。特に、雇い止めをした会社の人間、名義貸しをさせたものたち、生活保護の相談にきちんと乗らなかった福祉事務所の職員はその罪責は大きいように見える。これらの人物だけなら、あきらかに柴田という存在は画面の向こうのフィクションになっていただろう。しかしながら、彼の自殺のトリガーを引いたのは誰だったか。

 

 そう、登場人物のなかで最も「悪意」や罪責の薄い人物に思われるパン屋のおばさんのちょっとした嫌味だ。柴田は住所をなくし、ホームレス状態の中で食べ物を探し、さまざまなスーパーへと足を運んでは試食でその場の飢えをしのいでいた。パン屋にドーナッツを三回試食しに行った柴田をおぼえていたおばちゃんは、「もしよかったら今度は買って行ってください」と。それは、買わないで食べるという法令に違反しない範囲での「ライフライン」だったのだろう。しかし、迷惑行為であることには間違いがないし、おばちゃんはそれをかなり柔らかく指摘しただけだ。しかし、十分追い詰められていた柴田にとっては、ほかのより直接的な「悪意」よりも、響いてしまったのだ。

 「あんたには価値がない」、「お前の名前にはもう価値がない」、「65歳以下だから生活保護は受けられない」という非日常的な強い言葉ではなく、何気ない嫌味が柴田に自殺のもっとも直接的なきっかけとなった。これは鳥肌の立つような構成だ。一番、普遍的な言葉が重大な意味をもってしまうのも「反転の恐怖」だろう。おばちゃんは、柴田の背景など知る由もない。だから、見ている我々と大した変わりがない。柴田の「リアル」は彼自身と我々を重ね合わせられることの「いたたまれなさ」を発生させたが、おばちゃんの「リアル」はわれわれの「罪責」をも意識させる。柴田の元婚約者の言葉は、はじめ薄情なものとして響いたが、このシーン以降は視聴者も言うかもしれないと思わせる。「そんなに悪いことしましたか?」。

 

 以上のような「だれかはだれかの脅威となってしまう」という構成は、『恐怖分子』(1986年、中国、エドワード・ヤン監督)という作品を連想させる。関係のないものが、悪の因子となって脅威をふるうというのは、「普通に生活する」ことが時に他人から「否定的な意味をもつ」ことがあるという不都合な真実をあらわしているのだろう。

これにはおそらく、悪が「現象」としてしかたち現れず、その原因は小さな因子として「その辺にあるもの」のなかに顕在化することなく静かに散らばって存在しているという悪の「散在的」実存のすがたに関連している。善意の人のみでも時に悪は「現象」となり立ち現れる。おそらくそれを我々は感じているから、ときに悪を空白に例え、凡庸だというのだろう。「ボーダーライン」は、そのような悪に関する「リアリズム」を再構成し視覚化させた作品だ。そこには、視聴者の「悪が特別なものとして排除されてほしい」という欲望に基づいた戯画化など存在しない。見たくないものをみせたからこそ、この作品はカルト的人気を博すのだろう。45分間の映像体験がこれほど衝撃をもたらせたのは、無駄がない計算されつくした構成のなせる業であり、悪という時空間をこえた普遍的なものの顕在化は今後も多くの人に思考させていくのだろう。

 

 

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