猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【vimeo】世界は孤独を回避するための遊び場かー「Catherine」

 突然だが、筆者は猫を飼っている。非常に幸運なことだ。念願だったし、家族になってからも生活の中心にはまる(うちの猫)がいて、生きがいになっている。まるのために頑張らなくては!と力んだりもする。ん…でも実はまるに執着しているのは筆者のほうなのか??

 

 なんて考えたのも、今日のテーマとなった作品「Catherine」というvimeoに投稿された一本のアニメによってそう思考させられたのだろう。キャラクターの見た目などアメリカの幼児向けアニメのオシャレ感があり、猫がかわいらしく、11分という「プチプラ」な作品だ。

 

【以下、ネタバレ注意です!】

 

 

 

 

孤独な少女の空転

 題名の「Catherine」(キャサリン)は、主人公である幼い女の子の名前。誰もが、恐らくそうだったようにMr.Bear(くまさん)と呼んでいるクマの人形を連れて回るほど大好きだ。Mr.Bearの色は青色、Catherineの世界は暖色。彼女の世界のなかで特別な色であり、存在だ。彼女の世界の窓の外を歩く同世代の少女は、黄色い犬をつれている。そして彼女は言う。「そんな醜いクマと一緒になんて遊べない」と。

 

 彼女はそんなこと気にせず、Mr.Bearを抱きしめるが、彼の首はぽろっととれてしまう。そうすると、彼女の窓の外の世界はそのクマの頭部へとシュルっと吸収されてしまう。彼女の世界は、相棒がいないと成立しない液体の世界だ。ふにゃふにゃでぐにゃぐにゃ。この世界観は、実写ではなくあえてアニメという媒体でしか表現不可能なものだろう。

 彼女は、それでもMr.Bearを枕元に置くが、画面外から出てきた手は、無言でMr.Bearを取り除く。この手は、Catherineを撫でるから、どうやら親のようだが、そう彼女の親は、「画面の中の無言の存在」だ。だから、Catherineは孤独のよう。かわりに置かれた金魚を見てMr.Bearのことなんて忘れてしまう。Mr.Bearは、Mr.BearだからこそCatherineから好かれていたわけではない。Catherineが執着するのは、その相棒の「位置」だ。同世代の黄色い少女が連れていた犬のような。

 

 そのためか、執着は奇形の愛となる。Catherineは相手の動物のことも考えず、自分勝手に振る舞う。画面外の手が次々に与える金魚も、鳥も、犬も犬にとまったてんとう虫も死んでしまい。そのたび、Catherineを想っている向かいの家の男の子や例の手が回収していく。孤独な少女は、自らの世界を空転させていく。彼女のぐにゃぐにゃの世界で暮らしていけるのは、Mr.Bearと同じ色をした液体に近い生物=猫の登場をまたなければならない。

 

 

Yellow Yellow Happy

 猫はイグ・ノーベル物理学賞を受賞した「猫は固体と液体になれるか?」という論文があるほど、その柔らかさで有名な動物で知られる。青い猫がCatherineの相棒であれたのは、その柔らかさが彼女のぐにゃぐにゃの世界になじみ、彼女の雑な扱いに耐えることができたからだ。彼女自体は、例の向かいの家の青い男の子の捕まえてきた蝶を簡単に踏んでしまうほど変わらない。

 猫の方といえば、猫としては相当愛情深いようにみえる。それは、親猫から離され、少女と同じように孤独だったから猫も相棒をさがしていたのか。よくわからないが、彼らはよいカップルにみえる。二人はなかよくなり、Catherineのぐにゃぐにゃの世界は猫だらけになる。そして、自分も猫と同一化するように青い猫型帽子をかぶる。鏡には一瞬、Catherineが猫になった姿が確認できる。

 男の子はその帽子を「似合う、気に入った」というが、外の黄色い世界に出たCatherineはそんな評価は気にしない。彼女が黄色い町を歩けば、花も家も青い猫に変わっていく。一緒にいなくても彼女の世界には猫があふれている。

 

 しかしながら、そんな世界はもろくも崩れるMr.Bearを否定したあの少女=Wendyがあらわれるからだ。Wendyは、また黄色い犬を連れていて、邪魔だといってCatherineを突き飛ばす。そして言う、「あんたの帽子、すごくダサい」と。その瞬間幸せな猫の空間は消える。帽子が落ちても気がつかない。とにかく、溶けるように帰っていく。

 Wendyは、一般的な幸せを象徴する黄色い子だ。Catherineは、自分の幸福な世界を絶対的なものとして信じられない。それは、相対的であやふやなものとしてふにゃふにゃでぐにゃぐにゃの形状をしている。彼女は黄色い幸せに憧れている。ちょうど、ポケットビスケッツの「Yellow Yellow Happy」に以下のような一節がある。

みんな欲しがるお金で 黄色い子犬を買った

みんな欲しがる幸せ 強く強く抱きしめた

 

 

 

世界は孤独を回避する遊び場か

 猫は、幸せを信じられなくなったCatherineをむかえ、赤い舌でCatherineをなめる。すると猫はおおきくなってその頭部が家となる。家が猫となり、猫が家になった。その中に彼女が入ると非常に柔らかな青い空間がある。おそらく、猫はしあわせなど、人によって違うんだということを知っている。そのまんま、彼女はその幸せにつつまれて成長する。

 再び、猫だらけになった部屋(カーテンも、時計もねこ)から出かけていく。窓ガラスを挟んで二人は手を合わせる。ほんのり残った猫の手形はハート形になる。暖色の世界で彼女は意気揚々と買い物をする。猫のために。彼女はその幸福の形状を「抱きしめているように見える」。猫がいなくても一緒。状況はあの日とおんなじ。でもちょっときれいになった彼女は変わったようにみえる。

 

 しかし、Catherineはかわってなどいなかった。Wendyと出会ったからだ。Wendyは、黄色い犬だけでなく黄色い夫もつれていた。妊娠もしているようだ。猫だけでは足りなかった。ふたたび、彼女の幸福な暖色の世界は崩れ去る。時を超えても、彼女は自分の幸福を、幸福の多様さを信じることができない

 落ち込み、肩をおとすCatherine。逃げるように家の前の路地までやってくる。猫はふたたび、あの日と同じように、彼女を助けようと家を飛び出す。しかし、あの日とは違う。猫はひかれて死んでしまうから。このアニメでもっとも切ない瞬間。

 

 

 Catherineの世界は涙で白い液体に包まれ、彼女自身までも溶けるように、液体になる。ここから、孤独をうめるために「遊ぶ」。向いの男の子が、猫をはく製にしてもってきたからだ。液体のように彼女の世界と親和していた猫はただの個体になった

 それから、補充するようにいろんな色の歴代の猫が出てくる。いろんな死なせ方をしては、男がはく製にする。Mr.Bearのようにただいなくなるのではなく、いままでの自分を肯定するように、はく製=固体=オブジェ=コレクションが増えていく。それは、一種の趣味の悪いゲームにしか見えない。世界は孤独を回避する遊び場か

 

 相当の時間がたち、Catherineは老人となる。最後のオレンジの猫のとき、猫がそのオブジェのひとつを壊す。男は、それをなおそうとひろい、自分の家に戻ろうとする。その時、初代の青い猫のように車にひかれてしまう。彼女がショックだったのは、彼が死んだからではない。ゲーム=「遊び」が終わったからだ。Catherineはオレンジの猫にいう。「あなたのことは誰がはく製にするの」と。

 Catherineは一般的な、誰から見ても明らかな幸福を求めるのに、誰かのことを考えない。彼女は、自分の視点からしか物が見えない。だから、全編ふにゃふにゃのぐにゃぐにゃの世界のままだ。彼女はその生涯で孤独を回避するためにほかのものを利用した。世界は孤独を回避する遊び場ではない。この小さなアニメの小さな女の子の悲劇は、そのことを我々に確実に考えさせる。