猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

水溜りボンドのQJと「速さ」

  本日(3月18日)、ようやく、水溜りボンドの『Quick Japan』を手に入れて読んだ。

 

 これを読んでいると、 彼ら、そしてユーチューバーの方々のすばらしいところはその「速さ」だと感じた。YouTubeに目をつけた速さ、企画の速さ、視聴者対応への速さ、面白いものへの速さ…。その感度が並外れているからこそ、彼らは新しいエンタメの最先端を爆走している。

 

  水溜りボンドにおいては、四年間ずっと動画投稿を欠かしたことがないという「持続力」がほかのクリエイターからみても、異常らしい。今後、彼らについては東海オンエアと比較して、90年代的な笑いとからめて分析してみたいが、「速さ」を「持続」させているということは、その身体性をもすりへらすことであり、なおかつ、他人をおとしめないというスタイルが、非常にかつての「ウッチャンナンチャン」っぽいなと思った。

 

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  ところで、時間の問題だが、ネット社会において、その「速さ」は社会的にも必要とされるスキルと考えられる。かつて、自分も指導してもらってた教員にも、「速さ」をもて!とよくカツをいれられていた。しかし、このタイミングでブログをはじめたり、Quick Japanも手に入れるのが、かなり遅れているあたり、自分は「速さ」とは無縁なのかなと思うことがある。だからこそ、ユーチューバーたちを「速さ」の超人として尊敬しているのだ。

 

  しかし、「速さ」は、いつか限界にたどり着く。いまは、その「速さ」には、矛盾があるからだ。かの教員にこう言われたこともある。「東京じゃなければお前の研究はできない」、「東京の学生と違って、お前らは地味だ」、「東京ならより多くの文化やエンタメに触れられる。」、「東京なら…」。

 

  確かに、東京は魅力的な場所なんだろう。何人もの友人は就職先が東京だし、水溜りボンドだって青山学院大学の出身だし。美術展もコンサートも、小劇場も、東京だ。

 

  ようするに言いたいのは、日本のネット社会の「速さ」は現実世界(物質世界)の東京を必要としているということだ。東京から遠ければ、結局、「遅く」なってしまう。だから、いつか東京が膨張して破裂するか、「速さ」が止まってしまうのではないか。

 

  これからの時間はどうなるだろうか。「速さ」が物質世界としての東京を必要としないよりネット社会が進んだソフトな「速さ」となるか。あるいは、「速さ」に東京が耐えられずに、牧歌的な「マイペース」となるか。

 

  いずれにせよ、特にエンタメに限れば、人の心を豊かにしてくれるものだ。それに地域格差があるのは、現状仕方なくとも憂慮しなければならない。YouTubeは、もともと「東京」を必要としてなかった。どこからでも見れ、どこからでも投稿できるものだ。中心無き、「速さ」をもったエンタメとして今後も輝いてほしい。