猫にもなれば虎にもなる。

院生による本格分析(をめざす)ブログ。ねこちゃんにも寅くんにもなれるような柔軟な姿勢。

【超ゆるゆる雑談】中学のころ洋楽ばっかり聴いてたこと

いまから、10年ほど前iPodは当時の洋楽でした。じつは、このブログはクイーンの伝記的映画『ボヘミアン・ラプソディ』の分析からはじまってます。

 

正直、中学のころも(いまも)勉強のなかで英語が一番苦手でした。とくに、リスニングとスピーキング。テンションが高い先生のまえでとにかくおどおどしてた記憶しかありません。

 

大学に入ってからは、観光客の方から道案内で声をかけられるのが恐怖でした…汗。なにせ、ペラペラすぎてわからないんですもん。英語を話せる方には尊敬しかありません😅

 

でも、ずっと洋楽はすきでした。MTVをめちゃくちゃみてたからかもしれません。とくに好きだったのは、maroon5Oasisqueenでした。大学院のころの先生にいえば、そんな俗なものばっかりと笑われていたことでしょう。だから、音楽について話すのはちょっと敬遠したり、マニアックなものを知らないことに劣等感があったときもありました。

 

しかしながら、当時のプレイリスト聞いてみるとやっぱり個人的には名曲だらけでした笑。やっぱり、好きなものは好きでいるのが大事ですね。めちゃくちゃあたりまえなことに気がついた週末でした。maroon5の最初のアルバム『Songs about Jane』は特にお気に入りです。なかでも、「must get out」はいいなぁ。

 

と……なにげないことを書きましたが、これからも好きなものについてなるべく客観的に書いていきたいなぁとおもいます!そして、みなさんが好きなものについてももっと知っていけたらなぁ……と笑笑。

ちょっと忙しいので、今日はゆるゆるの雑談でした!今後は、ゲーム実況者の方たちの言及多め+αになるかもです。

 

また、次回の分析ブログでお会いしましょう😊

 

 

 

【最俺】ヒラの方程式;「優しい」×「デンジャラス」=「かわいい」

 いつかは完結させたいゲーム実況グループ「最終兵器俺達」のメンバーの個人論。結構前、キヨさんについて書きましたが、かなりたってヒラさんについて分析を書いていきたいと思いました(なんでこんなに期間が空いてしまったのでしょう…)。ファンの方からすれば、にわかだなぁと思う部分があるかもしれませんが、すこしでもかれの「かわいい」という魅力について明らかにしていきたいとおもいます!

 

★参考にしていただければ…↓↓

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 

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ヒラのイメージ論

 「最終兵器俺達」のなかでも、個人実況などにおいてもヒラを構成するイメージは、「優しい」サイコパス「かわいい」というものではないだろうか。コメント欄には、以上のようなキーワードが溢れているし、「かわいい」に至っては、企画で「あざとい禁止令」をだされたこともあった。ほかのメンバーが、キヨ・フジが「下ネタ」、こーすけが「ごまかし」「イクゥ」というワードの禁止であり、いかにイメージの核心に近いものを禁止しているかがわかる

 


1ヶ月間我慢します

 

 おそらく中核をなすのは、「かわいい」でありそれをなす要素が、「優しい」と「サイコパス」(デンジャラス要素)なのではないだろうか。その方程式は題名の通り以下のようなものだ。

「優しい」×「デンジャラス」=「かわいい」

 

 

ストレートな「優しさ」

 ヒラが「優しい」とよばれるのは、おそらく「最終兵器俺達」におけるヒラの役回りが大きく関係している。実況でも実写でも、その優しさが垣間見える瞬間は多々あった。なかでもほかならぬヒラ自身が主役であるはずの銀のタテの動画(【実写】YouTubeから「謎の箱」が届いた!)で、自分よりの努力よりもメンバーやリスナーへの感謝を述べている瞬間は象徴的であった。

 


【実写】Youtubeから「謎の箱」が届いた!

 

 この動画では、実写の合間に黒画面とテロップが入る。実写の中でここのテロップは、印象的だ。書かれているのは、「動画を見てくれている皆と 最終兵器俺達に感謝」。つづくのは、「ヒラと最終兵器俺達をよろしくお願いします。」というメッセージ、他メンバーのチャンネルのリンク。まっすぐな他メンバーへの気遣いは、やはりストレートな「優しさ」だ

 このようなまっすぐな気遣いは、最俺4人の実況や実写のなかでも多々感じられるが、その大きなひとつは、意外にも思われるかもしれないが、「沈黙」だ。複数人実況では話が被るのが苦手でおもわずだまってしまうという。下の動画5分ごろからそのようなはなしが語られている。

 

 


もっと「ヒラ」を知って欲しいから!自分の「取扱説明書」を作ってみた!

 

 おそらく、その沈黙は周囲への気遣いや優しさからくるものであり、実際最俺のなかでも彼がかなり静かな方であることは明らかだろう。もちろん特に最俺でいえば、全員なにかしらの優しさをもっているが(例えば、視聴者に見どころをくれること=キヨ、視聴者がわかりやすくしようとする気遣い=こーすけ、全体のバランスを見て振る舞う=フジなど)、もっともわかりやすくストレートに優しさを示すのがヒラであり、それはリスナーにも単純に伝わっていると思われる。最俺のほかのメンバーが彼に「優しい」のもヒラ自身の気遣いに対する正常な反応ともいえるかもしれない。

 

 それは、本来はゲームのプレイスキルが高いほうである彼にとってときにあだとなることもある。ちいさく炎上した「桃鉄」ではストレートな優しさがそのままプレイに出てしまい、勝ちに行ってないとか、腐っているなどの批判を巻き起こした。これは、愚直でときには損をするほどにヒラの「優しさ」を示す一例だった。


【4人実況】大喧嘩!?なんでもありの容赦ない桃太郎電鉄! #1

 

※ヒラ選手権では、桃鉄についてその裏側が若干触れられていた。

 

 

「デンジャラス」;「サイコパス」と「予想不可能男」と「シニカル」と

 愚直なまでの「優しさ」の一方で存在するのが、危うい一面だ。「サイコパス」的なところがあるのはリスナーによく知られたことで、それは『狂気のマインクラフト王国』シリーズでいかんなく発揮されていた。partⅡでの「村人を作る装置」などは(ネタもしても)超合理的思考からの装置開発でありやはりすこし「怖い」。わりとさらっと「サイコパス」がでてくるところや普段の「優しさ」からの違和感もまた怖いと思われる。


【協力実況】 狂気のマインクラフト王国 Part2 【Minecraft】

 

 また、おきまりの「踏み外し」や空気(流れ)を読めない/読まない行動は、「危うさ」の一面であり、その「予測不能」さは、リスナーをわりと冷や冷やさせたり、あるときには実況の着火点になることもある

 フジ工房に投稿された「『意志疎通 協力お絵かき』を4人でやってみた!」では周りのメンバーがヒラの絵の方向性に困惑していたり、キヨのチャンネルに投稿された「大暴走する星のカービィ64ミニゲーム大会」では、流れを読まないヒラにキレたキヨがゲームに圧勝したり、ヒラの「予測不能」さが大いに着火点となった動画は数知れない。(後者の動画ではカービィを、「ピンク玉」と形容、「落ちろ!」などヒラのマジ切れや暴言も見れるレア回であり、最俺が選ぶ一番面白い動画でもある。)また、「【第4回】人間不信選手権」では、こーすけ(NGが仕切る)をひっかけようとしたキヨとフジの流れを自らが仕切ることでその流れをぶちぎっている。「お前が仕切るんかーい!」

 


『意思疎通 協力お絵描き』を4人でやってみた!【最終兵器俺達】


【4人実況】 大暴走する星のカービィ64 ミニゲーム大会

 


【第4回】 人間不信選手権 【最終兵器俺達】

 

 また、ミッフィーが大好きなかわいらしいふわふわとした雰囲気から想像できないほど「シニカル」な一面がある。「タイトルとサムネで視聴者を不安にさせるんじゃねぇ!!!」(というコント)では(サムネ詐欺的表現について)「みんなやってるじゃん、みんな」「ユーチューバーのみなさん」と皮肉るのはヒラであり、最新の実写動画「全てに否定的になる『全員ネガティブゲーム』が面白い」では、ネガティブに「最近はまっていること」について(かれらのもともとの出身である)「ニコニコ動画」というかなりエッジのきいた答えを出している。

 


全てに否定的になる『 全員ネガティブゲーム 』が面白い

 

「優しい」×「デンジャラス」=「かわいい」

  以上のような「優しい」×「デンジャラス」が混在していることによるバランスの「悪さ」がみている側から目を離せない存在としての「かわいい」ヒラを構成している。ただ、優しいだけでもただ危ういだけでもなく、その両方があるからこそ、かれの「かわいい」は独特であり、一筋縄ではいかない。そのバランスが崩れてしまわないかという親視点的な見守りのあるいは心配のまなざしを引き出せるのだ。

 同じく、「かわいい」実況者であるレトルトさんとの違いは明確であり、繊細さとポンコツさのバランスの「かわいい」と「優しい」と「デンジャラス」の混在状態とではその「かわいさ」の性質や安定感がまるでちがうことがわかるだろう。

 今後、ソロでも最俺のなかでもどんなことをするのか、まったく予想ができないヒラ。これからも注視したくなっているという時点で彼の「かわいさ」に完敗なのだろう。 

 

※レトルトさんについての過去記事です↓↓

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

 caaatteey-0815.hatenablog.com

 

「悪」について考えること

 【※注意※】本日の論はほんのすこしばかりセンシティブな部分を含みます。

 

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  いろんな論を書いてきたが、では院で何を研究していたかといえば、「映画と悪」というテーマだった。

 

  かつて、映画監督がホラーは怖いものが嫌いな人ほどつくることができるといったように、私がこの研究をしはじめたのも「悪」が嫌いであるからという理由がしっくりくる。なぜ、実社会で憎悪されるべき「悪」が文化(とくに映像文化)のなかで大きな役割を果たし、多様に描かれてきたのか。ときにはダーティーヒーローという形で、魅惑的に描かれるのか。そもそも「悪」ってなんなのか。それが、研究の中核をなす疑問であった。

 

    研究をはじめておもったのはとくに哲学や思想の分野などが意外にも「悪」について、正面から向き合うことをそんなにしてこなかったということである。多くが善に対し副次的な問題として扱ってきた側面が強い。

 

  今回は、いままで悪について考えてきたことを箇条書き方式で書いておきたい。もちろん、試行錯誤の段階のものではあるが。

 

  今書こうとおもったのは、最近よく悪について考えられることが多く、そのような報道もいろいろと出ている。個人的な感情や意見はそれぞれあるだろうし、それはどれも間違っているとはいえないものだろう。しかしこと悪については、もう少し冷静に客観的に見なければならないとおもう。なぜなら、感情的になればなにか変えることができるだろうか。その場におらず、当事者でないわれわれはどれだけの想像力がもてるだろうか。その苦しみや痛みなどをどれだけ感じられるだろうか。想像力は追い付けない。人の想像力は自分で思うより小さなものだ。だから、冷静に考えることこそできることではないか、とおもえてならないのである。

 

  • 悪はいつも潜在的なものである。そして、強度的でもある。
  • 悪は現象で突如その姿が可視化される。
  • 悪は構造や安定を換骨奪胎する。そのため、構造や安定に深く浸潤している。
  • 悪は悪魔や怪物から産み出されるものではない。つねにその強度が強くなったとき、悪は怪物化する。
  • 悪は増殖をのぞむ。そのため、ときに他人の主観につけこんで魅惑的に作用したりする。

 

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  これからも悪について研究をしていきたいですが、本当に難しい概念です。なにか意見や持つべき視点を提供していただければ、ありがたいとおもいます。

「アイロニー」式表現方法~cheep sweets駄菓子を例に~

 

 「ちょぴまるさんは暑さにも負けず、ブログを更新してて偉いですね(笑)」

と、いまの自分に言われたらどきっとしつつも、こりゃアイロニーだなと思ってしまうでしょう。はい。暑さに負けてブログ小休止してました筆者の言い訳からスタートしましたが、「アイロニー」って実生活でも、表現のなかでよく耳にするのではないでしょうか。でも、もう少し考えるとちょっと不思議なのです。アイロニーは人を不快にさせるだけではなく、にやりと笑わせる効果まであるのですから(ただのいやみではないということ)。そんな不思議なアイロニー的表現について先行研究に触れつつ、最終的にはその表現法が巧みに使われているYouTube上のアニメについて書いていきたいと思います!

 

 

 

アイロニーはどのように研究されてきたのか

 実は、皮肉=アイロニーについてはかなり言及されているものが多く、それをすべて紹介するのは難しい。学者たちの頭を悩ませる定義のむずかしい概念のようだ。以下にはいくつかの説を書いていきたい。

 

1.辞書的意味

kotobank.jp

 とても簡潔に言えば、アイロニーは”皮肉、あるいは反語”という意味で紹介されていることが多いようだ。“反”語と言っているように、「反対概念を意味する」(ニッポニカ)や「反対の意味」(岩波辞書第4版)など、もとの「ことば」そのものがもつ意味にたいしてその反対の意味が読み取れる表現法とも読み取れる。

 

 

2.アイロニー=反対の意味への疑問

 1でとり上げた辞書的な意味合いへの疑問は当然のごとく打ち立てられた。これをわかりやすくまとめているのは、辻大介氏による「アイロニーのコミュニケーション論」*1という論文だ。

 

 辻氏によると、反対の意味についての疑問は以下の四点で考えられるという。

 ①《本質》

 ②《効果》

 ③《非対称性》

 ④《明言による失効》

 

 ①《本質》は、「文面とは反対の意味のというものが考えにくアイロニー表現がある」というアイロニーの本質が意味の反対では成り立たないということの定義不可能についての指摘だ(同論P92)。例としては「私の大切な花瓶を壊してくれて、本当にありがとう」(同論P92)が挙げられ、その「ありがとう」が単純に「ありがたくない」のような反対の意味と結びつかないことを指摘している。

 

 ②《効果》は、「直截的な(文字通りの意味を伝える)表現よりも強いインパクトをもたらしうる」(同論P92)のため、反対の意味以上の作用があるという指摘である。たしかに、実感的にもただ「なんか太ったね」といわれるよりも、「あらやせたんじゃない(笑)」とか言われた方が腹は立つかもしれない。個人差はあるけれども。

 

 ③《非対称》は、アイロニー表現が「専らネガティブな内容・印象を聞き手につたえるものである」(同論P92)であり、ポジティブな表現でネガティブな意味を相手にもたらすことがあっても、その逆はないというしてきだ。「反対の意味」ならポジティブ⇔ネガティブという双方向の関係がみられるはずだが、実際にはポジティブ⇒ネガティブという一方的なものだ。

 

 ④《明言による失効》は「アイロニーには、それがアイロニーであることが明言されると効果が失われる」(同論P92)という性質のことを指すらしい。アイロニーがそのような「効果をあげるためには暗示的(implicit)でならなくてはならない」(同論P93)。

 

  この疑問点は、それ自体が「アイロニー」という形式のもつ特異な状況をしめしているようだ。さらにみていくことにする。

 

 

3.アイロニーの定義への挑戦

 さて、辞書的な意味は包括的あるいは厳密な定義としては疑問があることは疑いがないらしい。では、研究によってどのような解釈の提案がなされているのだろうか。

 

3.1. 発話者という視点

 あらたな、定義のために取り入れるためにまず挿入される視点は「発話者」という主観的なものだ。林田三重氏・高橋知音氏による「アイロニー研究の現状と展望」*2において「近年多くの研究者が」扱っているというのは、Kumon-Nakamura, Glucksberg, & Brownによる「ほのめかし理論」だという。あるいは、2.でとりあげさせていただいた辻氏の定義においてみられるのは発話者がもつ「意図」や「主観」にかかわるものだ。

 

・「ほのめかし理論」=「アイロニーは成立しなかった期待に婉曲的に言及しつつ、発話行為の適切性条件を違反している表現」(林田氏、高橋氏同論P90)

・「アイロニーの《本質》は、“意図された不適切言語行為”」(辻氏同論P117)

 

3.2.発話者の主観+解釈者の主体

 当然、アイロニーも相手に伝わって初めて成立するともいえるかもしれない。つまり、受け取り手の問題が加えられた論もある。岡本雄史氏の「アイロニー発話の認知的分析 : 発話理解とコミュニケーションの統合モデルに向けて」*3*4では以下のように述べられている。

 

アイロニー発話は、その生成と理解において発話者と解釈者の認知作用の両方に関わっており、またその結果認知された逸脱の責任主体を要求する言語現象であるがゆえに、対人的な指向性も顕著であると考えられる。

――岡本氏、同論P117

 

 発言者と受け取り手という相互の項が関係するということを考えると、月並みながら夏目漱石の『こころ』が思いついてしまう。なぜか小学生のとき、これを読んだ著者にとって【ここから『こころ』のネタバレに一部踏み込みます!】、「K」が他人を愚弄する口癖=「精神的に向上心のない者はばかだ」を彼自身にむけた「先生」=「私」のアイロニーは強烈だった。言う側の意図、その言葉がもつ字義以上のネガティブな意味を生む構造。それが解釈されるという認知上の過程を経てそれが成立する、というのがアイロニーなのかもしれない。

 

 

アイロニー式表現方法~cheap sweets駄菓子の「アニメ」における笑い

アイロニーが「笑い」になること

 アイロニーは嫌味のような「不快」な表現であるとともに、「笑い」や風刺となることもある。おそらくそれは、表現の程度の問題や対象(解釈者へ)の具体性も問題なのではないだろうか。程度はそれが強すぎると単なる愚弄になるだろう。おそらく最近の某女優さんのTwitterなどは程度が強すぎたのではないだろうか。あるいは、対象者の具体性でいえば、さきほどの『こころ』は「K」という具体的な対象へ向けられたものだが、その解釈者が抽象的にぼかされているとその意味は少し柔らかくなるだろう。

 

 そのようなむずかしいバランスと、字義、あるいは表現されているものの意味合いが通じる相手がどれほどいるのかという不確定状況の積み重ねによって、表現者の意図(=皮肉)が伝わりはじめてアイロニー的な表現が存在するのだが、それをYouTube上でみられるのが、cheap swees駄菓子のアニメだろう。

 

 

cheap sweets駄菓子とアイロニーな笑いー「清い行為」の多義性ー

 このチャンネルのアニメには「清い行為」が多義的になってしまうという「アイロニーな笑い」がある。

www.youtube.com

www.youtube.com

 

 「仏」というかなりなじみの強い“聖者”がなんの予告もなく突然日常にあらわれるというシュールさがある。あきらかに、見た目が作画的にもリアルな「仏」にもかかわらず「コンビニ仏」では、コンビニの制服まできており、名札には「るしゃな」と書いてある。細部に見える仏や仏教への知識の細かさは、表現する側の「意図」も感じさせる。

 両作品とも“聖者”らしく能力を発揮する。「自動販売機」では、男性が落としたお金を白毫(額の点)によって照らし、「コンビニ仏」では、バーコードを読み込める。このとき、解釈者はみているものすべてになる。対象は、このアニメくらいでは威光が揺らがないであろう「仏」だ。存在が偉大あるいは著名すぎる場合、対象はより抽象的になる。

 さらに、この両作品は「清い行為」を多義的にしてアイロニカルになる。「自動販売機」では「お賽銭」、「コンビニ仏」では「寄付」が「仏」が“能力”、あるいは”視線”によって導かれる。このとき、主人公の男性や女性の行為は善意か、仏の「ありがたさ」か「強制されたもの」か非常にあいまいになる。行動自体が善意やありがたさというもともとの意味合いが強制されたものというほかの意味合いの可能性もふやしアイロニカルになるのだろう。

 

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聖☆おにいさん』にも関連するかもしれない。↓↓

 

聖☆おにいさん(1) (モーニングコミックス)

聖☆おにいさん(1) (モーニングコミックス)

 

 

*1:東京大学社会情報研究所紀要』第55号,P90~P127;以下のURLで閲覧可能 http://d-tsuji.com/paper/p04/paper04.pdf

*2:信州大学教育学部紀要No.110』P89-98、2004年

*3:京都大学、博士論文、2003年

*4:リンク:http://implicature.net/pdf/okamoto_phd-thesis.pdf

【ネット時代】「共有」「共感」への希求【試論】

現代人は「承認欲求」が高いのか。

若者を語るときによくキーワードとなり、ネット文化そのものを象徴する「承認欲求」。事実、もと指導教員から「今の子は承認欲求が、つよいよね」といわれたことがある。

 

承認欲求とは他人から認められたいという欲求のことをいうらしい。上の世代からすれば、SNSに「自分」を表記しようとする若者の姿はたしかに「承認欲求」そのものにみえるかもしれない。

 

しかしながら、一部の作品や、ネット上の活動をみれば、承認欲求とはすこし異なる欲望のかたちがみえてくる。それが、「共有」や「共感」への希求だ。

 

 

「共有」という名の増殖運動

絶対的な価値はとうにない。それが平成だった。平成期になって重視されたのは、自由と個性だ。それは個人の「選択」を推奨する一方、強固なライフスタイルを崩壊させた。

昭和的な人生設計は、ハードへの疑いとともにくずれかけ、自由という名の責任のもとにその価値をさぐらなくてはなくなった。サルトルは役割がきまっていない自由の苦しさを論じたが、それは平成期の若者の葛藤に似ていたのかもしれない。

 

そのような風潮は、「なにがふつうなのか」「なにが正しいのか」ということに対する不安をうんだ。そこで、若者が希求したのが「共有」という運動だ。

 

「共有」はそれがすすめばすすむほど、おなじ考えがクラウド上に増殖する。それが共有の運動だが、これは「なにがふつうなのか」「正しいのか」ということが曖昧になり、なんらか絶対的な基準をもてなくなった若者にとって増殖する情報は指標となるのだ。

 

つまり、「わたしがここにいることを認めてほしい」という積極的突出への欲求よりも、「このままでいていいと認めてほしい」という消極的突出への欲求がつよいのではないだらうか。

 

「共感」への羨望と「非共感」の恐怖

2017年に相次いで公開されたのは「非共感」への恐怖を描いた映画だった。『ハッピーエンド』(ミヒャエル・ハネケ監督)は、少女の始点の残酷なスマホ映像を冒頭にすえ、結局だれともわかりあわずに不気味である少女の顛末を淡々とえがいた。また『LOVELESS』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督)は、母親という存在でさえ、じつは曖昧であり息子の消滅という状況に最後まで「非共感」な母親を描いた。

 

それぞれが「選択」できるはずなのに、「非共感」は恐怖だ。逸脱や理解不能なことは相変わらず「恐怖」で「不気味」である。逆にいえば、不感からくるいちじるしいマナー違反は、その恐怖の結晶としてとらえられようか。ここに現代の若者にある矛盾がある。

 

逆にいえば共感は最大の安定剤だ。かたちや方法がちがっても根本で「共感」していたい。おそらくこのような思考がこれからの文化においてはテーマになるような気がする。引き続き思考したい。

カジサックはユーチューバーを思考する

 

 そういえば、「ユーチューバー」ってなんでしょうか。子供のあこがれは、テレビのタレントさんよりも「ユーチューバー」だといいます。おもしろいし、キラキラしているから無理はないというのは個人的な感想です。ただ、「ユーチューバー」という概念が何を指しているか、カジサックが登場するまでは考えたこともありませんでした。

 

 カジサックは、ブログ主が小学生のころみんながみていた『はねるのトびら』の人気者、あの「キングコング」の梶原さんです。あっ、みんな知っているか。あのころはお笑いブームということもあって、クラスのみんながみていたのを覚えています。レギュラー陣はみんなスターでしたが、そのなかでも「キングコング」の二人の人気はものすごかったです(語彙力…)。おそらく、同世代にはなんとなくわかってもらえると思います。そのため、最初は、テレビのスターがまたYouTubeやるんだなと思っていました。しかし、毎日投稿をみていくうち、ああ、「カジサックさんはYouTubeを思考しているんだな」と思うに至ったのです。それは、ほかのユーチューバーにはないユーチューバーとはなにかという存在論に関する思考が、可能性への思考が確実にあると思います。さて、そのことについて今回は書いていきたいと思います!「おなしゃす!」

 

 

全世代型への挑戦

多型的への挑戦

 一口に「ユーチューバー」といえど、多分野があることはよくしられたことだろう。実写系といわれるなかだけでもビューティー系、グループ系、物申す系など多岐にわたっている。当のカジサックは、何系になるのかといわれれば、それは定義しがたい。YouTubeにもともと存在した分野を拡張しつつYouTube自体の可能性を広げているようにみえる。

  • ファミリーチャンネル(+ヨメサック、コサックなど)
  • グループ系(+トンボさん、ヤスタケさん、土橋君など)
  • 音楽系(kajisac house)
  • 料理系(+サックし)
  • ビューティー系(+ヨメサックなど)
  • 対談系

 

 メンバーやコラボ相手により、YouTube上にある分野を踏襲していく。このレギュラー陣のスイッチング、多様性はほかのユーチューバーでもなかなかなく、今日はどれがくるんだという楽しみにうながっている。各分野の有名ユーチューバーには以下の通り。

 

  • ファミリー系:しばなんチャンネル
  • グループ系:東海オンエア
  • 音楽系:Play.Goose
  • 料理系:きまぐれクック
  • ビューティー系:関根理沙

 

多くの場合、見ている側がやってみれそうな、手の届きそうな企画が多い。多くのユーチューバーがそうしているようにコメント欄の声も反映させながら、である。そのために、画面の外で見ている側がただみているというだけの「視聴者」ではなく「リスナー」としてより能動的になれるというのはYouTubeの従来の形だ。しかし、それだけではとどまらないのがこのチャンネル、カギは対談系にあるだろう。

 

YouTubeという媒体と「お笑い芸人」

 YouTubeと「笑い」について、「親近感」が重要だと書いたことがある。

 

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

  しかしながら、親近感は「素人」というわけではない。ユーチューバーは分野はそれぞれあれど、「自らの視点」で多くのリスナーを楽しませる「プロ」だ。そこで大切になるのは、「自らの視点」をつくりあげるそのひとの「背景」だ。「~出身」や「学生」などの所属、なにが得意なのかという「趣向」、なにをしていたかという「経歴」といったものが重要となる。カジサックは、YouTubeがどのような媒体かを理解したうえで、「お笑い芸人」を「背景」としたユーチューバーとして活動した。そのため、「芸能人」がYouTubeをしているという形とは、一線を画すことが可能になったのだろう。対談系はカギとなる分野だ。ゲストに芸人さんがでるというのは新しく、多くはふたりで話すことははじめてにしても、共演したりなど面識はあり、そのことやカジサック自体が背景として「お笑い芸人」である(それもМー1のファイナリストだ!)ことも支持して、舞台裏などの「素」を垣間見ることができた。ゲストも「お笑い芸人」をひとつの「背景」にすることに成功したのだ。


極楽とんぼ山本さんに地上波では絶対話せない話をしてもらいました

 

 また、いわゆる「ゲスト」以外の家族や仲間に協力を得ることで、「お笑い芸人」としての背景だけではなく、等身大の「パパ」や「友人」の側面もみせ、YouTubeはあらためてそのひとによって、多様な可能性があるのだということを証明した。「視点」の多様さは、声のひとをつとめるヤスタケさん、トンボさんやヨメサックなど、それぞれの感性が取り入れられているからなのだろう。その感性の多数性が対象年齢を拡大させた。この色を統一しすぎないバランスのよい視点の多様さは、YouTubeの可能性の思考のひとつだったように思う。

 

 

カジサックはYouTubeを思考する

  カジサックはユーチューバーを「自由」だと表現した(Twitterより)。たしかに、さまざまな背景をもつ人たちがその「視点」を「共有」するのがYouTubeという場だ。「好きなもので生きていく」というのが、ユーチューバーを象徴する言葉としてよくみられるが、「好きなものを共有し、見ているものを楽しませる」というのが実態なのではないか。

 本来は対立や矛盾をしないにもかかわらず、日本では相いれなかった「お笑い芸人」と「ユーチューバー」。そこに挑戦することは、理解されなかったり軋轢があったりとするだろうが、その衝突こそ、ユーチューバーへの思考の過程なのだろう。子供の夢にもなっているユーチューバーがさらに確立されていくという過程がこのチャンネルにはある。

 

超個人的おすすめを貼っておきます!↓↓


12年ぶりに嫁と丸一日デートしました!


絶対に笑ってはいけないコジサック!!

 

 

【ゆるばなし】猫ってメスとオスで違うの?

猫は動きがやわらかい。関節がないの?って思うこともあるくらいだ。だっこしたとき、ふと音がするとまるで液体のようににゅるにゅるとぬけていく。希代の奇術師、フーディーニかな??

 

そのやわらかな身体はかれらの性別に関わらず、女性性に結びつけられがちだ。でも実際では、どうなのだろうか。実体験を書いていきたい。

 

一般的によくいわれるのは、メスは自立心がつよく、オスは甘えん坊だということ。メスは子育てをひとりでしなくてはならないため、オスはメスにアピールするため、というのがその理由だという。(猫の育て方ブックにはよくそう書いてある)。

 

さて、メス猫は友人が飼っていて、そのうちにお世話になっていたことが多く、触れあう機会が多かった。また、猫カフェでもメスちゃんに遭遇してきた。自立心が強いかといえば、うんそうかな?という感じ。オスに比べても、べつに甘えないこともない。慣れるまでの期間も、個体差やその子と人間とのそれまでの関わり方による。

 

一方、オスはうちの飼い猫くんで触れあってきた。甘えん坊かといわれると確実にそうといえる。しかし、自立心がないことは全然なく、気まぐれにぷいっとどこかに行ったかと思えば、逆にかわいいストーカーと化してとことこついてくることもある。猫カフェのボス的なオスくんもわりとそんな感じだった。

 

私個人の猫歴が少ないから確実にとはいえないが、経験上は猫が性別的に違うということはなかった。オス、メスというよりも、個人として存在してる感じがしていた。ただし、猫の勘が鋭いなぁと思うのは、オスの場合、人間の女性に慣れやすく、メスの場合、人間の男性に慣れやすいことが多いことだ。なにかを感じとっているのかな?その理由をわたしはまだしらない。

 

 

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最近、ちょっと忙しく分析ブログを書くには雑になりかねなくていやだったので、まえに書いてあった愛する猫ちゃんに関する文章を挙げました!

 

知れば知るほど不思議な生き物ですね…🤔

猫ちゃんたちには人間はどうみえているのかな??